マグマ インタビュー
Magma Interview
Christian Vander
Interview 1997,10,19
Conversation avec Klaus Blasquiz
1977,02
new! Entretien avec
Magma 1975,12,14 new!
Christian Vander Interview 1997,10,19
at Salle Poirel (Nancy France) interviewed by Denis
Desassis, Alexis Drion and Jerome Schmidt
日本語訳:宮本重敏
If you want to see the original French vesion please visit the
site Art Zero.
Si vous voulez lire la version originale en langue francaise visiter le site Art
Zero.
オリジナルフランス語ヴァージョンを参照なさりたい方はこちらへ
ART ZERO (cultural magazine):
http://www.multimania.com/bsadour
Q;1970年、Magma
初期の頃からあなたは“低俗な音楽文化との闘い”をよく口にしていましたが、それから25年たった今1997年、その闘いは実を結んだとお考えですか?
CV;もちろんさ!でもその結果は何処にあるのだろう?僕に言えるのは、この世界は25年前からちっとも良くなっていないということだけだ。
Q;あなたから見て、音楽シーンが良くならない一番のネックは何だと思いますか?有能なミュージシャンが不足していることでしょうか?それとも優れた作曲家がいないことでしょうか?
CV;間違いなく作曲の方に問題がある。個々のミュージシャン達はとても巧くプレイしている。しかし、ある曲を生涯のレパートリーとして、大事に練習で、ステージで練り上げていく者がいない。だからバラバラな音楽しか演れないバンドが増えるんだ。ミュージシャンとしては一流でも、演っている音楽は二流以下というのが多いだろう。なぜだと思う?音楽を書くということが軽視され、本当に魅力のある音楽が出来てこないからだよ。僕は作曲の持ち得る力と重要性をかたく信じているんだ。
Q;かつて Einsturzende Neubauten
のリーダーが言っていたのですが、彼は凡百の音楽への反発をバネにして、よりいっそうの創造のエネルギーをかき立てているのだそうです。あなたの場合もそういうことが言えるのでしょうか?
CV;いいや、僕に言わせれば彼はまだ青いよ。僕だってミルクは飲むけれど、哺乳ビンまでは要らない。つまらない音楽は僕にとって何の刺激にもならないのに、メディアは似たり寄ったりの音楽ばっかり流し続けて、もううんざりってところだね。本当に必要なのは、何か全く新しい音楽の表現だ。冒険ばっかりしろと言うのではないが、人間はそこに自己表現の余地があれば、常に全力を尽くしてより高い見地を目指すべきだと思っている。
Q;それではあなたは音楽を作り続けることが嫌になってしまったのでしょうか?
CV;そうではない。僕は常に新しいアイディアを探し求めているんだ。実際それは素晴らしいことだ。全てはリズムだ!2つか3つのリズムがあれば、僕は無限のメロディーを生み出すことが出来る。
Q; Magma 再編のきっかけは何でしょうか?
CV;実のところ僕はいつだって Magma
をやりたい気持ちがあったんだ。ライブは僕の生き甲斐だ!Magma
のことは一時も忘れたことはない。そんなときに僕の友人が再編を奨めてくれたんだ。機は熟したり、って訳だよ。
Q;Magma ファンが必ずしも Offering
の音楽を気に入っているとは言い難い、このことについてあなたはどうお考えでしょうか?
CV;こういうことはもっと時間がたってから話した方がよいのだが…。Magma,
Offering,ソロアルバム…、全てのプロジェクトはまだ続いていくのだから、言うべき時が来たら打ち明けることにしよう。Offering
は確かに不運なバンドだった。充分なツアーも行えなかったし。Magma
を始めた頃は観客40〜50人なんてことはざらだったが、それでも月に25回のコンサートが出来た。お金は全然無かったけれど、サンドイッチとソーダの食事をとって、トラックの下で寝る分には何の問題もなかったさ。
Q;ジャズトリオの演奏では、あなたの関心は何処にあるのでしょう?
CV;新しいリズムが幾つも発見できる。そして新しいメロディーもね。
Q;Magma, Offering, Trio
を全部合わせたコンサートをやろうと思ったことはありますか?
CV;ああ、つい最近もそんな話があったよ。ただ一つ大きな問題があって、それは
Offering
にはアコースティック・ピアノが必要不可欠だということだ。アコースティック・ピアノとのバランスを考えると電気楽器が使えなくなってしまうんだ。何とかピアノと電気楽器が一緒に使えないかと思って、70年代の初め、僕らはフランスで最初にフェンダーピアノをバンドに導入してみた。それは確かにうまく行った。だけれどフェンダーはあくまでフェンダーであってアコースティック・ピアノじゃない。3つのプロジェクトで一緒にコンサートをやろうと思ったら、アコースティック、フェンダーの両ピアノに電子キーボードまで揃えなくちゃならないし、それには予算がかかりすぎるということだ。
それに僕自身もドラム、ピアノ、ヴォーカルの掛け持ちになるから大変な覚悟がいる。そう言えばこんな事もあったな。1983年に
Offering
をスタートさせた頃、ライブは3時間にも及んだんだ。開演から10分もした頃、僕の声の調子がおかしくなってね。自宅で練習しているときは、また翌々日にでも歌い直せばいいんだけれど、そこはステージだ。そのまま3時間も歌い続けなくてはならない羽目になってしまった。忘れることの出来ないコンサートだよ、まったく!
Q;テクノ、ハウス、ヒップホップ、ラップ......。近年になって台頭してきたこのような音楽をどう思いますか?
CV;君の言わんとしていることはよく分かるよ。(笑い)人間、行き詰まってくるとどうにかして窮地を脱しようとするもんだけれど、そこに一本筋の通ったものを見つけることは難しいね。至るところで道を踏み外すし、それを元に戻すのはもっと難しい。本当は自分の信念を見失わずに地道に一歩一歩進んで行くことが大事なんだけれど。何か新しい表現手段が出てきたら、まずは良く見てみることだ。1000のグループがあれば、1000のスタイルがあってしかるべきだ。まずは流行から離れ、二度とその中に身を投じない強い意志が必要だ。「ラップの時代にはやはりラップだよ。」なんてみんな言うけれど、言わせてもらうが、僕はいつの時も自分の意志を貫いてきたし、時代の制約は受けているとしても、それはもっと大きな時間の流れの中にあるものなんだ。
Q;Magma
の聴衆がどんどん世代代わりしていくことはどう思いますか?今夜もとても若い客が多かったし…
CV;僕は音楽の流行り廃りとは常に無関係だった。Magma
の音楽は時代を超えたものだからこそ、今でも新しい人達にアピールするのだと思う。それは、僕も少しは
John Coltrane
に近づくことが出来たということではないかな?僕は11歳の時に
Coltrane
を聞いて、これは時代を先取りしていると感じたけれど、今聞いたってその気持ちは変わらない。
Q;今年は Coltrane
没後30年に当たりますが、それについて云々する記事や行事が余り無かったように思います。これについてはどうお考えでしょうか?
CV;敢えてそれは良いことだと言っておこう。何周忌だからと言って誰も彼もが
Coltrane! Coltrane!
と騒いでおいて、来年になったらさっぱり忘れてしまっているというのよりはね。僕はいつでも、この瞬間にも彼のことを思っている。彼は僕にとって最も大きな存在で、今でも僕の心の中に生き続けているんだ。
Q;Coltrane
は死の直前にポリリズミックなアプローチを追求していたようですね。例えば2人のドラマーを起用するとか。あなたが
Simon Goubert と一緒に Welcome
プロジェクトでやろうとしているのも同じことなのでしょうか?
CV;そのとおり。僕らもそれに挑戦してはいるが…。しかし僕らは僕らであって
Coltrane, McCoy Tyner, Elvin Jones, Rashied Ali といった人達ではない。Coltrane
の音楽はインド音楽と一緒でバイブレーションに根ざしているのだが、それに気付かない人が多いね。バイブレーションというのは決して単なる抽象的な概念じゃないんだ。それは確かに存在するし、まるで耳に聞こえるようにハッキリと作用を及ぼしてくる。Coltrane
の様にやろうと思ったらバイブレーションを理解するミュージシャンを集めなくてはいけないし、僕らの追求していることはまたそれとは別のものだと言うことだ。
Q;とても曖昧な言い方ではあったけれど Coltrane
は音のないレコードを作りたいという意味合いのことを言っています。それについてはどう思いますか?
CV;不可能なことではないな。彼はフィーリングのことを言ったんじゃないかな。Magma
の音楽は全ての人のためにある。目の見えない人や耳の聞こえない人のためにさえだ。目の見えない人達の前でいくら大がかりなライトショーをしても何にもならないだろう。Magma
は目が見えない人、耳の聞こえない人のためにも演奏するよ。Magma
は一種のバイブレーション、フィーリングを生み出すバンドであって、それはどんな人でも感じ取ることの出来るものだからね。多分
Coltrane が言いたかったのはこういうことだと思う。
Q;何年か前に、あなたは“音”そのものの追求を口にしていましたね。今の話だとあなたの関心が複数の音どうしの関係に移っているようですが、これは前進と考えてよろしいのでしょうか?それとも同じことを別の言い方をしただけなのでしょうか?
CV;僕が言っていた“音”というのは、いまだかつてだれも聞いたことのないものなんだ。2,3年前僕はたしかに
Magma
としてこの“音”を追求したアルバムを録音するつもりだと言ったが、今はそれ以上のことを言うのは控えておこう。Magma
の次作はバイブレーションのアイディアに基づくものになるだろう。
何人ものミュージシャンがこの“音”を一生かけて探し求めては、ついに発見できずに終わっていった。僕は1987年以来“音”に基づく音楽に集中しているんだ。まだ充分な成果があるとは言い難いが、だがそのおかげで、僕自身音楽の捉え方が変わってきた。今
Coltrane
や他のアーティストを聴き直してみると、また別の視点で彼らの音楽を見つめ直すことが出来るよ。
(注:Christian Vander
は幼少の頃“完璧な楽音”に触れた想い出がある。ここで言う“音”とはその記憶に基づいたコンセプトである。)
Q;今日本では Magma
の影響を受けつつも新たな音楽を目指すバンドが多数活動しているのはご存じですか?。例えば
Ruins とか Bondage Fruit とか Happy Family
とか…。こういった動きについてのあなたの考えはどのようなものでしょうか?
CV;とてもおもしろい音楽シーンだと思う。しばらく前に日本のあるバンドの音を聴いたことがある。とても巧いバンドだったが、同時にとても悲しい気持ちにもさせられた。それは現実主義にどっぷりと浸かった音楽だったからだ。僕は現実とのつながりのない音楽をやれと言っているんじゃない。だが現実主義一点張りの音楽には本当にいらいらさせられる。僕が
Coltrane
を聴くのは、そこに何かもっと別のもの…、そう、もっとずっと美しく緊張感のある何かがそこにあるからだ。決して悲しい現実主義の世界じゃない。
Q;あなたが理想とする音楽を現実の世界に広めていくために、一ミュージシャンとしてどんなことをやろうと考えていますか?
CV;僕自身ミュージシャンになったのは失敗だったかなと思うときがあるんだ。だって、何か他のことをしていればもっと役に立つ人間になれたかも知れないだろう?もし人生をやり直せるとしても、もう一度ミュージシャンになるかどうかまったく分からないよ。果たして僕は音楽の世界で何か世の中のためになることをやって来たんだろうか?昔は、僕がステージで自分の仕事をしている間、他の人達も自分の領域で精一杯働いているのだと信じていたんだ。自分がステージを降りて照明が消えた後、ライブの出来に不満で落ち込むこともしばしばだった。こんな事では人に夢を与える音楽なんて出来ないぞ、てね。しかしある時そうではないことに気が付いたんだ。たいがいの人は何もやってはいなかった。その時は本当に自分が壊れてしまうのではないかと思うほどのショックを受けたよ…。それでも僕は自分のやるべきことをやっていくだけだ。僕より上手にそんなことをやってくれる人が現れない限りね。
Q;惑星 Kobaia
とは、純粋無垢な人達が住んでいた失楽園のことなのでしょうか?とりわけ94年に発表されたあなたのソロ
“A Tous les Enfants”
において子供のことをたくさん歌っておられますが。
CV;僕が言っているのは今僕らの住んでいるこの世界の子供のことじゃないんだ。苦しんだあげく空しく死んでいった子供達、僕はそれを光の子供達 (enfants de la lumiere) と呼んでいる。彼らにはより素晴らしく自由な世界に生きて欲しいのだが...。悪いけれどこの話はここまでにしてくれないか。
Q;あなたのコンサートを聴いているときに沸き起こってくる強い感情、ここから何かが始まっていくとは思いませんか?
CV;コンサートを終えると大勢が僕のところにやって来て、感動しましたとか素晴らしかったとか言ってくれるんだ。もう耳にたこができる程にね。けれど、一日経って彼らの行動パターンが変わっているだろうか?そうはならないだろう。彼らは自分を導いてくれる人が欲しいだけだ。でも僕はそんな崇拝者は要らないんだ。「あの時のコンサートを覚えていますか?」「ええと、あなたがドラムを叩いていたんでしたっけ?」次第に彼らは忘れていくのだ。意識が睡眠状態にあると言ってもよい。幸い僕の意識は常に覚醒している。僕の人生は眠っている暇もないほど個性的な人達との出会いに満ちているからね。こんな人生を与えてくれた母に感謝しなくては。だが人生とは音楽だけで事足りるようなものなのだろうか?音楽の嫌いな人だっているけれど、それはそれで良いことだと思う。どんなに凄いミュージシャンも、彼らにかかってはうまいパンを焼くパン屋にかなわないという訳だ。
Q;Magma 人脈の中でも最も謎めいた人物、Rene Garber (Stundher)
。今でも彼とはコンタクトを取り合っているのですか?
CV;ああ、よく会って話しているよ。そして Magma
の歴史上、謎の人物というのもそのとおりだ。彼はいつの時も Magma
とともにいたけれど、あまり表には出てこなかったからね。彼はステージに立たないことがよくあったので、他のミュージシャン達から嫌われることもしばしばだった。何であいつも我々と同じだけ金がもらえるんだ、てね。6人で演奏して150フランしかもらえなければ、7人目が問題になるって訳さ。Stundher
と僕はよく釣りに出かけたよ。おかげでくだらないファーストフードに金を使ってしまう他の連中よりはましな食事が出来た。
Stundher
は本当にいつでも僕の傍らにいて、僕に言ってくれた。今の音は良いとかダメだとかね。ある曲のテーマについて自信がないときは必ず彼に聴いてもらった。すると彼は僕の顔をじっと見て、良し!とかダメだ!とか言うんだ。彼の答えはいつも当たっていた。でも残念なことに楽器の演奏は余り巧くなかった。彼の役割は音楽を生み出すための仲介者なんだろうね。
60年代の後半、彼と出会って以来僕らは同じ音楽を聴いてきた。R&Bや、そして一番よく聴いたのはやはり
John Coltrane だった。僕が初めて Stundher
と出会ったのはとあるライブで、彼は45分にも及ぶサックスソロを演っていた。僕はこんなソロに理屈抜きで驚いてすぐに彼に会いに行った。「
Coltrane を聴けよ、な!」それ以来僕らは一心同体のようなものさ。
Q;Coltrane
は彼を聴いたサックスプレイヤーを“殺して”しまう、とあなたは言ったことがありますが…
CV;John の演奏を聴いた Sonny Rollins
は3年間サックスを手放したんだから、まったく驚いたよ。彼はその後再びサックスを手にしたが…
Q;あなた自身も何人もドラマーを“殺して”いるのでは? Didier
Lockwood はあなたのことをドラムの Coltrane だと言っていますが…
CV;とんでもない!Lockwood
が言っていたのは誰か他の人だろう。僕じゃないよ。Elvin Jones や
Rashied Ali というドラマーがいるじゃないか。僕の考えではそれは
Rashied Ali だな。単純に彼の音が好きだからなんだけれど。“Interstellar
Space”や“Stellar Regions”といったアルバムを聴いてみれば、よく分かる。“Meditation”での二人の競演も捨てがたいが。
Q;あなたも Rashied Ali
同様たくさんの未発表音源を持っていて、順次発表して行くつもりでしょうか?例えば
AKT レーベルから…
CV;僕らは Magma
を知る上で鍵となる重要な音源に限って発表して行くつもりだ。大量の未発表音源でファンを惑わせたりはしないよ。今特に出したいと思っているのは、1974年
Colmar におけるライブ音源だ。この時 Magma は僕と Janick Top, Klaus
Blasquiz,それともう一人は誰だったかな?の4人編成になっていた。(注:この時のキーボードは
Gerard Bikialo )ピアノの Michel Graillier は直前に脱退し、そのため
Janick
はベース1本で八面六臂の大活躍をしたんだ。それはまるで50人編成のオーケストラを聴いている様だった。ヴァイオリンやコーラスの音まで聞こえてくるような気がしたよ。まったく伝説的なライブなんだが、惜しいかな僕はこの音源を持っていない。
Q;1973年の始め頃、Magma
はライブで、いまだ未発表のある長い曲を演っていましたね、Stundher
や Janick Top と一緒に。まるで “MDK” と “Kohntarkosz”
が溶けて混ざり合ったような…
CV;Don't Die( Magma
のカヴァーバンド)の友人達が最近その曲を演ったよ。これは “Khontarkosz”
へと発展していく重要なプロセスで “Kohntarhk Numero 1”
と呼んでいる曲だ。ライブで演奏したことはたった3回だけだが、その中でも
St Michel sur Orge
で1973年の終わり頃演奏したテープは僕も持っていた。それにドラムパートを少し付け加えようとしたら、誤って他のパートを消してしまったんだ。この曲はとても重要だったから、本当に悔しい思いをしたよ。
Q;この頃は大曲 “Emehntet-Re” の発表も期待されていましたが…
CV;そのとおり。“Emehntet-Re”
の録音が始まったのは1976年だが、そのころはまだLPの時代で、全部収録するとLP3枚組になってしまうこの曲を発売してくれるレコード会社なんて一つもなかったね。だから録音は中止になった。
Q;Janik Top が Magma のために作った曲、例えば “La Musique des Spheres”,
1976年10〜11月にかけてのルネッサンス・ツアーで演奏されていたこの曲の発表を望んでいる人も多いですよ。
CV;Janick からはこの曲と一緒に “Glah”
という曲の入ったテープを預かったことがある。この “Glah”
は共鳴し合うベルの音に Janick
のベースとヴォーカルが呼応するとても美しい曲だ。まるで鳴り響く鐘の中から聞こえてくる歌声の様なんだ。
ベルはとてもハーモニーの豊かな楽器だ。John Coltrane
もその音が好きだった。ハーモニーの豊かさは音楽にあってとても重要な役割を果たすんだ。音楽はまったくハーモニーだけで出来ているとも言えるのだからね。様々なハーモニーを使えば、ドの音だけで20分の演奏だって可能だ。決して一本調子なものにはならないよ。今録音中の“Les
Cygnes et les Corbeaux”という新曲では、僕はたった一つの音程で歌うんだが、様々なハーモニーを使ってその音を色々に変化させていくんだ。その気になればただ一つの音を基に交響曲を書くことだって出来るよ。
それで Janick だけれど、彼は “Udu Wudu”
のCD化に当たってこの曲を追加収録してくれないかと言ってきた。しかし音楽的内容から見て
“Udu Wudu”
に入るべき曲ではないと思ったので、その話は断った。その代わり、Janick
の曲を集めてアルバムを1枚作ってみないか?と提案したんだ。彼は「どの曲をアルバムに入れるか少し考えさせてくれ。」と言った。そして…それっきりだ。
この話とは別に、彼は素晴らしい未発表曲の入ったスタジオ録音テープをくれたことがある。お蔵入りさせるにはあまりに惜しい内容だったけれど、勝手にそれを発表したんでは
Janick に悪いと思ってしばらく僕が保管しておいて、郵便で Janick
に送り返したんだ。そしていざ「あのテープはどうなった?」と聞けば、「さてどこに行ったかな?探してみなくちゃ分からない。」だ。1978年のことだ。最近だって
Fusion で彼と演るに当たって、“Glah”
やその他の曲をやり直してみたらどうかと言ったら、彼の答えはまた「少し考えてみるよ。」だった。そしてやっぱりそれっきりだ。しまいには、果たしてこの男自分の素晴らしい音楽を人に聴いてもらおうという気があるのだろうかと思ったよ。(注:Fusion
は Benoit Wideman, Didier Llockwood, Christian Vander, Janick Top
の4人編成のバンド。1995年に再編されてライブを行っている。)
Q;Janick の新しいバンド STS
はもう御覧になりましたか?彼流のジャズ・フュージョンサウンドですが。
CV;いや、まだだ。Janick
はとにかくライブをやるべきだね。とにかくステージに立ってあの頃のレベルへ戻って来て欲しいと思っているんだが。だけれど彼はあまり多くのリスクを負おうとはしていないな。気心の知れたドラマー
(注: Claude Salmieri のこと。
ポップ歌手のバックをよくやっている。)とばかりプレイしていたんじゃお仕事的な音楽からはまったく抜け出すことは出来ないよ。ドラマーは機械のように正確にリズムを刻み、その上を
Janick
が好きにベースを弾く。楽でしょうがないと思わないか?彼はもっと凄いことの出来る人間だ。もっと素晴らしい音楽を創り出せる人間なんだ。Janick
には僕と Emmanuel Borghi ( Magma, Christian Vander Trio, Collectif Mu
のピアニスト)とでジャズトリオを組まないかと持ちかけているんだ。彼を再び、自分で道を切り開いて行かなくてはならない状況へと引っ張り込むためにね。彼の返事を待っているんだが…いいや、僕はもう待ってなんかいない。もう充分だ。今は我が道を行くだけだ。またそのうちに彼と一緒に演る日も来るだろう。
Q;7th レコードが設立されて10年、結果はいかがでしょう?
CV;まず僕の領分である一人のミュージシャンとしての立場から言えば、大変良かったと言える。公式アルバムを全て僕らの望むジャケットでCD化できたよ。1001℃なんてひどかったろう?それから自分たちのスタジオを持つこともできた。おかげで仕事がはかどるようになった。7th
がレコーディング・スケジュールを割り当ててくるからね。管楽器に3日といった具合に。
“Merci”の録音にあたってはブラスパートに当てられた予算は30000フランだった。3日で予算を使い果たしたけれど、録音が終わったのはわずかだけ。“Call
from the Dark”という曲で、ブリッジに続く高音のトランペットセクションの後、低くささやくようなトランペットが聞こえてくる。このトランペットは
Phillippe Slominski
という男が吹いているんだが、彼は本当にいい奴だった。レコーディング当日、運悪く彼の帰りの列車は夜中まで無かったんだ。ぎりぎりの時間まで僕らにつき合ってくれて、昼間他のトランペット奏者が吹き込んだパートで具合の悪いところを吹き込み直してくれた。実際トランペットのパートは彼一人で吹いているようなものだよ。それでも最初考えていたように仕上げることは出来なかったけれど、予算不足でそれ以上はどうしようもなくなってしまった。
Q;新人アーティストの発掘も順調ですね。Collectif Mu (7人編成のジャズバンド、フランス国内で幾つもの賞を受賞している)や、Emmanuel
Borghi, Patrick Gauthier, Jean-Luc Chevalier, Pierre-Michel Sivadier
等のソロアルバムといった具合に。
CV;おかげさまでうまく行っている。7th
という名前はシンバルが鳴り響く音に似せて付けたんだ。こんな具合にね、swwwwiiiiiiiiich!
。7th
が発足した頃僕は、これでオーケストラの大音響も直に録音できるぞと言った。(実際うちのスタジオにオーケストラは入りきらないけれど。)要するにあらゆる音楽に対して開かれたレーベルにしたいという意味だったんだ。
7th レコード設立の時は、IMPULSE
レコード社のようなオレンジ色と黒のロゴマークを使おうと思っていた。当時
IMPULSE 社は活動停止中だったから。でも幸か不幸か IMPULSE
社が復活したので、僕らはもっと独自の赤と白と黒の縁取りを使うことにした。おかげで僕らのCDは一目でそれと分かるようになったよ。そして
AKT
レーベルでもこの3色の組み合わせでデザインしたけれど、うまくいっているだろう。
僕はたまに心を静めるために絵を描くんだけれど、その時は10枚かそれ以上にも及ぶ連作の風景画になってしまう。1枚描くと次のアイディアが生まれ、それを描いているうちにまた次の絵がという具合に、次々と別の世界を旅行して歩くようなものだ。僕の描く絵は少々抽象的で、まあ僕の好きな色の集まり程度の意味しかないんだけれどね。
Q;絵と言えば、G.H.Giger に “Attahk”
のジャケットを依頼したときの話をしてもらえますか?
CV;ああいう絵を描いてくれと頼んだのは僕だ。しかし彼の描いてきたビルは小さすぎた。僕は果てしなく高く伸びていくものを頼んだつもりだったんだ。まあフランスという国は万事がそんな調子だ。アマゾン川を望めばセーヌ川(しかも穏やかな)を書いてくるし、ピラミッドと言えば即座にケオプスだ。僕らは電話で打ち合わせをして、その時は彼は何かやってくれそうな気がしていたんだが…。この垂直にどこまでも高く伸びていくというのはとても大事なことで、まあ僕の強迫観念みたいなものだね。釣り合いとか黄金分割といった概念からは生まれてこない感覚で、何かもっと幾何学的なアプローチだ。昔から使っている有名な
Magma
のシンボルマークにも同じ様なことが言える。その均整のとれた形はある種の完璧性を感じさせてくれる。
Q;このマークはどうやって生まれたのですか?
CV;僕はあのシンボルに幾つもの意味合を持たせたかった。これほど完璧にそれを満たす形はそうはないだろう。Laurent
Thibault
の妹に1stアルバムのジャケットデザインを依頼したときは、何か動物の足のようなもの、異星の生命が地球をつかんでいるところを描いてくれということだったんだ。それがあの爪の絵になったんだけれど、あれはそれ以上のものを表してはいなかった。みんなには鷲の爪だとか何とか言われてがっかりした思い出がある。僕は何かもっと意味のつかみにくいものが欲しかった。Magma
の音楽を象徴させるには少々具体的すぎたんだ。それでその次からは、もっと抽象的で神秘的なあのシンボルが使われるようになったのさ。
誰もその意味が分からない。誰もコバイア語を理解できないのと同じだ。コバイア語は感じ取る言語であって、パッとその場で翻訳したり、まして分析など出来ない言葉なんだ。
うまく言えないけれど、僕のやっていることにはちゃんとした秩序があるんだ。それは時を追えばはっきりして来るんだけれどね。例えば
Magma として10枚のアルバムを出した後で Offering
のアルバムが1枚出る。みんなは「どうして Offering
というアルバムを作ったんですか?」と聞いてくる。しかしそれ以上深く考えようとはしない。もし
Offering のアルバムを30枚も出せば、みんなも Offering
という別の音楽があるんだと気が付くだろう。しかし2〜3枚では誰もそれに気が付かない。
Q;やりたいことがたくさんあるのに、その全てをやり遂げるだけの時間がないとか、年をとるとともにそういう不満が募ってくることはないですか?
CV;うん、それはよく感じるね。しかしだからといって仕事をぞんざいにやる訳にはいかない。世の中には死ぬまでに自分の仕事を完璧にやり遂げていった人もいる。例えば
John Coltrane だ。“Expression”や“Offering”の後に彼が何かやり残したことがあったなんて想像すら出来ないよ。彼はやるべきことは全てやり遂げた。僕自身も可能な限り彼の様でありたいと願っている。人は死を身近に感じたとき、情熱を燃やして仕事に打ち込むものだ。僕は生まれ持った感覚でそれをやり続けてきたんだ。“Les
Cygnes et les Corbeaux”
の録音に当たって、僕はもっと早く仕上げるつもりでいたんだ。僕自身は自分のパートはほとんど一発で決めるんだけれど、他の人達は何でそんなに急がなくちゃいけないんだって顔をしている。こういった連中と一緒に仕事を進めていくには大変な調整作業が必要になるし、何か問題が起こるとどうやって解決するか考えもしないで言い争いばかりだ。万事がこんな具合だから、2ヶ月もすれば出来上がると思っていたアルバムが5ヶ月、6ヶ月かかっても完成しない…。
Q;そこがあなたらしいところですね。そうして話題にのぼりながら消えていったプロジェクトもたくさんありましたし…
CV;そのとおりだ。人と一緒に仕事をする場合の気苦労といったら大変なものだ。実を言うと僕の声とピアノだけでソロアルバムばかり出し続けていこうと思うこともあるんだよ。もちろん20人分の表現を一人でこなすことは出来ないけれど、一人なら一人なりに感情を完全に出し切ることが出来ると思っている。10枚以上のソロアルバムを作れるだけの曲は書きためてあるんだ。スタジオに入って演奏して録音すれば出来上がりだ。後は僕が本当にその気になって曲を選ぶだけだよ。
“To Love” もそんな風に制作されたんだ。とても親しい友人だった
Jean Paul Fenneteau
の追悼のためにあっという間に録音は完了したよ。とても私的な内容だから気に入らない人も多いかもしれないと思っていた。実際多くの人が批判的ではあったけれど、これは
Jean Paul に当てた個人のメッセージなんだ。
(注:Jean Paul Fenneteau はMagma の “Merci” や Offering
のジャケットデザインを手掛けている。)
Q;“To Love” に収録された“XMC” は Archie Shepp の“Le Matin des Noirs”
のカヴァーで始まりますね。これはどうしてですか?
CV;この曲はまた密かに Archie Shepp
に捧げたものでもあるんだ。だから僕はこの曲でだけドラムをプレイした。僕は
Archie にとても個人的なことを語りかけたかったんだ、Malcom X
に関することでね。だからこの曲は“XMC”
というタイトルが付いているんだよ。
独自に発展させた形ではあるけれど、僕はよく Alice Coltrane
が使っていたモードを借用している。John が “My Favorite Things”で吹いているテーマは全て彼女のモードに基づいていることに注目して欲しい。僕もようやくそれに気が付いたんだ。聴けば聴くほど新しい発見がある。例えば
“Every Time We Say Goodbye” では、John がテーマを吹き終わると McCoy
Tyner, Steve Davis, Elvin Jones が演奏を止めてしまう。John
がこんな事をさせるなんてとても珍しいことなので、僕も不思議に思っていたんだ。「残念だ。どうして最後まで演らないんだ。」と。実は、この曲のテーマには本来歌詞が付いていて、シンガーが“さようなら”と歌ってしまったらもうそこで曲はお終いなんだ。これはまったく論理的だ。でもフランスのジャズメン達の間では“さようなら”の後も演奏を続けることが当たり前になっている。曲を正しく演奏するつもりならミュージシャンは歌詞にも注意を払うべきだということだね。最近聞いた話だが、アメリカのミュージシャンがフランス人とジャムセッションをやったときに、あるバラードの途中で演奏を止めて、ピアニストに「この曲の歌詞を知っているか?」と尋ねたそうだ。曲がうまく表現されていないと感じたらしい。ピアニストは結局この曲を弾けなかったらしいよ。
“Hhai” を演るに当たって僕はギタリスト(注:James McGaw
のこと)に歌詞を説明した。曲を正しく理解してもらうためにね。今では見事に弾いてくれているよ。
Q;現在のレパートリーは、前回のツアー時と同じものでしょうか?
CV;その通りだ。しかしメンバーチェンジがあった。(注:キーボードのJean
Francois DeatギターのFranck Vedelが抜けて、Emmanuel Borghi:キーボード、James
McGaw:ギターが新加入)これはとても重要だ。Emmanuel
が入ってくれたおかげで、演奏に安定感が出てきた。彼はまるでずっと昔から一緒に演奏してきた仲間みたいだ。そういう人が僕には必要なんだ、今それだけのことが出来る人物がね。
Conversation avec Klaus Blasquiz
Klaus Blasquiz との対話 Atem マガジン no.9
1977年4月
質問・構成 P. Herve, Y. Herve, J.F. Loue 日本語訳 宮本重敏
Magma 死せず! Janick Top
脱退に続く数ヶ月、Magma は沈黙を守る。その間 Christian Vander と Klaus
Blasquiz
は、新たなミュージシャンを集め、更なる前進を期していた。彼らを突き動かす信条、それを何とか伝えようとするエネルギーと、それを実現するための路線転換がはっきり感じられる。彼らは再スタートの地として、ここブルターニュ地方を選び、このインタビューもそこで行われた。Klaus
氏の快い対応に感謝します。
(訳注:ここで言う Janick Top 脱退とは 1976年10〜11月のいわゆるルネッサンスツアー後の二度目の脱退を指している。新編成の
Magma は1977年2月頃 Rennes
をはじめとする、フランス北西ブルターニュ地方で再スタートを切っている。)
Atem: ここブルターニュでの新生 Magma ツアー、出来映えはいかがでしたか?
Klaus Blasquiz (以下KB): ブルターニュの人達にとっても確かに新しい体験だろうが、これは我々自身にとっても新たな Magma なんだ。実際ピアノの Benoit Widemann 以外 Magma での演奏は初めての者ばかりだし。
Atem: 新しくメンバーを編成し直すに当たって、問題はありましたか?
KB: 問題はいつだってあるさ。
Atem: 特に時間が足りなかったとか...
KB: 時間不足...、確かにそうだ。Janick Top が抜けた後、我々は大急ぎでメンバーを集め、リハーサルを開始した。問題もいくらかは解決した、それも思っていたよりも早くにだ。それでもリハーサル不足は明らかなので、今まで通りの長めの曲からいくつかと、新 Magma の名刺代わりに短めの曲をいくつかというステージ構成にした。きちんと演奏できるようになれば、長い曲ばかりに戻そうとも考えているが... だが観客がついてこられないのに大曲ばかりというのも考えものだ。僕らは昨年まで Kohntarkosz や Theusz Hamtaahk をステージで演って来たが、さっぱりだった。観客の頭の上を素通りさ。
Atem: Theusz Hamtaahk がですか?信じられません。
KB: だがそうなんだ!それでも Kohntarkosz よりはましだったかな。とにかく Kohntarkosz のレコードを理解できる者は皆無に近かった。Theusz Hamtaahk を演ると、みんなは早く終わってくれという顔をして待っていた。"Chorus de Batterie" とか "MDK"を聞きたくてうずうずしているんだ。それならさっさと聞かせてやれば良いじゃないか。観客がそういった曲を求めるまではおあずけにする、簡単なことだ。
Atem: そう言う訳で Theusz Hamtaahk の録音は延期ですか?
KB: その通り!かわりに Ptah と Emehnteht-Re の録音を始めようと思っている。
Atem: ということは Emehnteht-Re の準備が進んでいるということですか?
KB: 作曲が終わり、用意も万全だ。ステージで演らないのは、単にコーラス隊がいないから、そして曲が長すぎるからだ。45分もある長い曲を演ると客は集中力が続かなくなってしまう。そこで今は妥協しているんだ。音楽自体に妥協は無いけれど、どの曲をステージで演るかという選曲の点でね。
Atem: なるほど、今晩のステージもそういう感じでしたね。でも観客の反応は良かったでしょう。
KB: それはこういうことだよ。一方に大曲、典型的な Magma 風交響楽があり、一方に肩肘張らない短い歌もある(それでも聞けばすぐに Magma だと分かるが)。しかし、大曲ではテーマに継ぐテーマがひっきりなしに登場するのに比べ、小さな曲ではテーマが充分活かされ凝縮されており、取っつきやすいということだ。観客は全体を把握出来ない、いいかい、彼らは大局的な見方をしないんだ。彼らは顕微鏡を通したような見方しかしない。顕微鏡を覗いている人に全体を見させようというのは忍びないと思わないかい?結局は見ることが出来ない。だから我々は短い曲を演る、それが彼らのレベルにあっているんだ。そして少しずつ大曲に慣らしていく。もし彼らがついてこなかったら?困ったことだが、その時はそれまでだ。しかしついてこられる者は、徐々にその視野を広げていくだろう。何事にも段階を踏むことが大切だ。いきなり誰かに中国語の講義をしてもダメなんだ。まずは「こんにちは、奥さん。」と言ってみることだ。空間、無限、宇宙などについて語る前に、まずは中国語で「こんにちは、奥さん。」と言ってみるのも悪いことではあるまい。いつかはあらゆることを語れるようになるんだから。
Atem: Magma の次作はどのような物になる予定ですか?
KB: Ptah を含む Christian Vander のソロ中心になるだろう。Ptah
とは Chorus de Batterie の一部だ。この曲は Zombies
で幕を開けるが、これは Udu Wudu
と名付けた曲へと繋がっていき、全部で20分ほどになる。この曲はコーラスのために作曲されているので、今はまだ演奏していない。このメドレーを導入部として
Chorus de Batterie
が始まる。この曲は始めはまるっきりベルの音だけで始まり、その後
Ptah へと展開していく。Ptah
は立派な音楽だ。冗談で演っているんじゃないよ。これが約20分。更に小曲をいくつか、そのうちのひとつは
Tamla Motown, Temptations
なんかを思わせる内容だ。僕らの歌の原点だよ。
(訳注:訳者が現時点で確認している1977年のライブ音源は4月2日の
Rombas と6月22日の Orleans のみである。このうち Rombas では Zombies
からすぐに Chorus de Batterie へ繋がって行くが、Orleans
では両者の間に未発表の、ちょうど Theusz Hamtaahk と Retrovision
の中間の様な、大きく分けて2つのパートからなる15分程度のコーラス曲が登場する。これがここで
Klaus の言う Udu Wudu なのだろうか?ちなみに1976年スタジオ録音の Udu
Wudu とはまったく異なる曲である。)
Atem: 結局それが Emehnteht-Re なのですか?
KB: 確かにこれが Emehnteht-Re だ。しかしその前にもう1枚、短い曲を集めたアルバムを出そうと思っている。Ptah はその後1ヶ月で仕上げるつもりだ。2月、3月で録音して、リリースは4月か5月になればいいが。
Atem: 実際に問題になっているのはコーラスですか?
KB: ミュージシャンの方にも少なからず同様の問題はある。それは進んでやろうという気持ちがあるかないかと言うことだ。単に巧いだけの者もいるが、常に自分のベストを尽くそうという者もいる。そう多くはないけれどね。要は考え方、これが肝心なんだ。Magma と一緒に演ることが重要なのではないが、ただ、Magma と一緒に演らない者が何もできないのも事実だ。何もだ。上手く言えなくてすまないが、実際我々は共に戦ってくれる同志を必要としている。孤立無援の状態とは早くおさらばしたいのだが...
Atem: それでも Magma の影響下にあるグループは幾つもあると思うのですが?
KB: そうだ、しかし良い影響とは言い難いね。必然性が感じられない。上っ面だけの真似事で、思想がないんだ。敢えて名前は挙げないが...
Atem: なるほど、しかしあなたの言う音楽を越えた思想は彼らにも伝えて行かなくてはいけないでしょう?
KB: その通り、但し彼らも理解しなくてはいけない。さもなければ感じ取ることだ。たとえ彼らが何も感じなくても、こちらの言いたいことを全て言うことは出来る。音楽上のことなら何でも言えるけれど、相手に感じるところがなければ、何にもならない。多分きれいに纏まってご大層ではあるが、何の役にも立たない決まり文句が残るだけだ。
Atem: 現在活動中のグループで、これはと思うものはありますか?
KB: Henry Cow だな。ただし彼らもたくさん間違いを犯している。音楽そのものがどうというのではないが、彼らは自分たちのやりたい音楽というものをいまだにはっきりと見定められないでいる。
Atem: 彼らには多分にフリーミュージックの方向性がありますが、そのことでしょうか?
KB: そうだ、私に言わせれば、そこに問題がある。フリーを演ること自体ではなく、展示会じみた音楽を作るところにだ。例えて言えば、彼らの音楽は一種のカタログみたいなものだ。そう、カタログだ。Saint Etienne の兵器工場のカタログ、各々の兵器は実に有効だが、それだけでは軍隊は出来ない。他のものに例えたって良い。花のカタログだけでは庭は出来ない。庭を造るには、それをどうやって作るかというノウハウが必要だ。庭を造るには造園の知識が必要で、ただ花を植えればよいと言うものではない。Henry Cow は音楽を演っているのではなく、彼らがやっていることは...
Atem: なるほど、しかしそれは恐らくは彼らの音楽が成熟しきっていないということではないでしょうか?
KB: ああ、しかしこうも言える。成熟するには時間がかかるんだ。あるレベルにまでなら、彼らだって達している。しかし私が先程述べたレベルにまでは行っていない。多分 Magma 自体も初めの頃はそうだったと思う。ある意味では我々は極端な過激主義者なのだろう。望みが高すぎたんだ。我々は観客を信用しすぎていた。
Atem: ある時期、あなた達をエリート集団と見なして嫉む人達もいましたよね。
KB: それは我々の望むところではなかった。我々が高みにいたのではなく、彼らの方が低いところにいたのに。我々はいつも自分たちのやれることだけやってきた。実力以上の力を出せたこともあるかも知れないが、それでもやはり出来ることだけやってきたんだ。我々は観客のために演奏し、彼らがどう変わるか見てきた。そしてなぜ彼らが理解しないか自問したんだ。彼ら理解しないのは、こういうことをやっているのが我々だけで、他の連中は、我々のやり遂げたことをぶち壊すばかりだからだ。
Atem: 音楽の面だけでなく、情報操作という点でもですね。
KB: あらゆる点でだ。実際我々の音楽は全てを含んでいるからだ。とても簡単なことだ。まあ演奏しろとなるとちょっと大変だが、音楽を感じるだけなら簡単だ。メロディーを口ずさめない者はいないだろう。誰だってハーモニーは分かるし、なじみの薄い音楽かも知れないが、今晩ここで見たものに感動できる筈なんだ。僕らは MDK を演る。7/4拍子と9/4拍子の組み合わせだ。だがそんなこと以前に、観客は MDK を感じ取ることが出来なかったようだ。間抜けた顔をして座っていただけだ。
Atem: なるほど。しかし感受性という点では教育にも問題があるのではないですか?あらゆるレベルで感覚が鈍化しているように感じるのですが。
KB: まったくだ!10作っては20壊す、そういうことだ。それでその次には20作らなくてはならなくなる。ところが今度は40壊してしまう。その度に瓦礫の山だ。やればやるほど無駄なエネルギーが必要になっていく。
Atem: しかしフランスには何の文化政策もない。
KB: その通り。しかし、それを文化の荒廃とか政治的意図のせいにしてはいけない。それはまさに倫理の問題なんだ。まったく水中でもがく人の頭を押さえつけて沈めるようなものだ。これは政治的なものではまるでなく、倫理上の話だ。まさに下品で、邪悪で、悪意に満ちている。政治的と言うよりも、悪魔的だ。これが正しい見方だと思う。
Atem: Janick Top が突然辞めた理由は何ですか?
KB: Top はもう Magma の思想を分かち合うことが出来なくなったんだ、多分永遠に。彼は一旦はそこまで到達したんだ。しかし、もうこれ以上 Magma で演る必要を感じなくなった、そしてやる気がなくなったんだよ。Magma 以外なら世界中のどこのバンドへ行ったって一流でやれる素質がある、それははっきりしている。まさにベースの天才だ。しかしそれは過去の話になろうとしている。ステージではかつての1/10の力しか出せなかったよ、ありふれたプレイではなかったが。非凡なベーシストなんだから。
Atem: なるほど。しかし、1973年に Rennes で見た彼のソロは凄まじかったですが...
KB: 73年の時はまた別だ。あれ以来彼はあれだけのことはやっていないと言っているんだ。彼はなぜ自分があれだけのことを出来たのか深く考えようとしなかったからだよ。今回も彼ぱ「やるぞ、やるぞ、やるぞ!」と言っていた。しかしそれだけだった。彼の感性はぐらついていたし、それに対しては誰も何もしてやれなかった。彼はちっとも物事が前進しないのに気付いて、ついにはあきらめたのさ。パリ Renaissance 劇場でのソロですら我々は物足りなく思っている。確かにすごい演奏ではある。しかしあの頃の狂わんばかりの熱中が無い、決して燃え上がることはなかった。そう、多分に冷えてしまっていたんだ。傍目にはまだ暖める位の力は残っていた、しかしそれは本物の炎ではない。どうしようもないことだ。
Atem: しかし彼がセッションミュージシャンとして数多くの仕事をこなしてきたのも事実では...
KB: ちょっと別の角度から考え直してみよう。数多くのセッションワークをこなしたかも知れないが、その結果がああだった。状況が変わったということもあるかもしれないが、何より彼自身が変わってしまったのが原因だと思う。Magma の音楽についていえば、「我々は新しい音楽を創造する。」などと言う必要はないんだ。Magma は時代遅れの音楽は演らない、それだけだ。我々は選択を行う。低俗なものはとことん取り除くんだ。その結果論理的、生理的かつ有機的に今の Magma がある。汚いものをとことん避ければ、自分にとって都合の良いものばかり選ぶことになる。ただ、自分に都合の良いことばかりやっていると、そうではない場合に比べて道を誤る可能性はうんと高くなる。逆に選択をしていく方を選べば、常に掃除を心がけねばならない。さもないと清濁混ざり合って、しまいには...。失敗は覚悟しなくてはならない。我々は神様じゃないんだから。簡単なことだ、常に新たな目標に向けてスタートしろと言うことだよ。この掃除をすること、洗脳だという者もいるかも知れないが。私はこれを「埃払い」または「鉋掛け」と言うことにしている。磨き込むことで金属本来の光沢が現れてくるという意味だよ。
Atem: それでも大変なことでしょう、その「鉋掛け」というのは。
KB: 大変難しいことだ。しかし、人生とはそういうものだ。難しいことをやり遂げれば、それだけ人は強くなれる。達成したときには、強固な意志と素晴らしい力が手にはいる、しかもそれは不断に大きなものとなって行くんだ。
Atem: Janick Top はソロアルバムを作るでしょうか?
KB: 多分作るだろう。そんなチャンスがあればいいと思う。しかし意味のある音楽が出来るとは思わない。
Atem: Didier Lockwood が辞めた理由も同じことでしょうか?
KB: その通り、しかし Janick Top の場合とはそのレベルに段違いの差があった。見かけとは裏腹に、その差はでかかった。それはヴァイオリンの運指が早いとか、Christian Vander の言いなりだとかそういう話ではなく...、上手く言えないが、結局彼は何もできなかったということだ。彼はジャズロックに陥ってしまった。我々は彼に Mekanik Zain のソロを任せてみたが...、それも1音1音全て Christian が身振り手振りまで含めて教えたものだが、ついに上っ面だけで、本物の演奏にはならなかった。
Atem: 彼のソロアルバムは多かれ少なかれジャズロックですしね。
KB: それが全てを表している。彼の精神はそこからさらに進もうとはしていない。毒のないきれいな音楽だ。だが彼は今以上の高みに達することはないだろう。
Atem: 彼はまだ若いですし、これから変わっていくということはありませんか?
KB: 違う、違う。ある意味では彼も成長して行くんだ。しかし、先程言ったような意味では彼の成長はないだろう。
Atem: 人生を通して、すっかり変わった人だっていますが。
KB: そう、例えば Benoit Widemann だ。彼はまだ19か20だが、根本的に変化した。始めから、比較の対象にならないほどその方向性が Didier Lockwood とは違っていた。Benoit は知的で、Didier は本能的、動物的だ。しかも内から湧き出てくる本物の血の通った本能は持ち合わせていない。そんな感覚が欠如しているんだ。ためしに彼にジャムセッションをやらせてみるがいい。彼は他のプレイヤーのやっていることを聞いてはいない。たとえ聞いていても理解してはいない。わがままなんだ。彼の演奏には始めから終わりまで心がない。微妙なニュアンスもなければ、脈絡もない。熱気もないし、何もない。単に彼はデモンストレーションをやっているだけだ。
Atem: ダイナミズムが感じられないと?
KB:
そうだ、その通りだ。爆竹か何かみたいで、ポンポンはねはするが本物の爆発にはならない。人間としての精神に欠けている。
(訳注:ここで爆竹と訳した petard
にはダイナマイトの意味もあり、Klaus Blasquiz
はダイナミズムと引っかけたしゃれを言っている。)
Atem: Magma のコーラス隊は明日がお披露目ですか?
KB: 順当に行けば、昨日から出来たはずだったのだが、なかなか難しい。20人ばかりの女の子をオーディションして、ようやくあそこにいるあの娘を見つけた。
Atem: Udu Wudu や MDK の時に起用した女性達では駄目だったんですか?
KB:
駄目ではないが、あれだけのことをやるのにはずいぶんと時間をかけたんだ。MDK
の録音では私が男声パートを全て歌い、私と Christian
で女声パートをひとつずつ受け持った。一緒に歌った女性は2人。うち1人は現在ステージに立つことが出来ない。Stella
のことだ。歌うことが出来ないのでは、彼女は道路の街灯のように立っているだけで、厄介な立場になってしまう。そんなときに敢えてコーラスをつけなくてもいいだろう。それと他にも問題はある。あそこの
Florence
も同様だ。彼女はとてもきれいな声をしている。全ての歌を完全に暗記しているし、素晴らしく誠実な性格をしている。が、それだけでは不充分だ。「誠意を持ってすれば山も動く」と言う人もいるかも知れないが、私は少々疑わしいと思っている。そうでなければ、彼女の誠実さは本物ではないということだ。多分彼女は本物だ、但し時間はかかるだろうが。効果的なコーラス、それが問題だ。もう一人要る。100%を望むなら3人の女性が必要なんだ。3人いれば声の可能性が色々追求できるし、そのためのエネルギーも充分だと思う。小会場のツアーばかりでなく、大規模な単独コンサートも可能だ。かつて4人の女性とリハーサルしたことがあるが、すぐにぼろが出た。息が上がってしまい、Magma
の音楽についてこられないから、彼女らは Michel Sardou, Johnny Halliday,
なんかと一緒に歌っているよ、シュビドゥビドゥワ...
(訳注: Florence Bertaux は1977年の始めに短期間 Magma
に在籍した女性ヴォーカリスト。わずか数回のステージで脱退した。
Stella
がこの頃ステージに立てなかった理由は、諸説あってはっきりしないが、この頃
Klaus と Stella は仲が悪くなっており、Klaus が Stella
をステージからはずそうとしていたのは確からしい。
Sardou, Halliday を引き合いに出したのは, Janick Top, Bernard Paganotti ら
Magma OB がよく彼らのバックをつとめていたから。)
Atem: 新たに参加したミュージシャン達は前は誰と一緒にやっていたんですか?
KB: Alain Stivell とだ。彼らは Alain の次作にも参加する予定がある。
Atem: Magma としても別のプロジェクトはないのですか?かつては Yvan Lagrange の映画 "Tristan et Iseult" に関与していますし。
KB: その話はしないが華だよ。くだらない悲しい話だ。しかし音楽は、精一杯控えめに見ても素晴らしい内容だ。ベストとは言えなくても大変良くできたアルバムの一つであることは間違いない。
Atem: そうですね、しかし配給会社の問題がある。.
KB: そう、Barclay だ。レコードを探すのが大変だ。
Atem: そして MDK も輸入盤でしか聴くことが出来ない。
KB: 言語道断だ!しかしこれも Magma を妬むものが陰謀を企んでいるという証拠だよ。
Atem: Magma のレコードが売れないという訳ではないでしょう。
KB: "Live" 以降は売れている。"Live"も"Udu Wudu"も売れているよ。しかしかつては"MDK"は別として売れなかった。"Kohntarkosz"などは惨めなものだった。フランスで15,000枚、そしてイギリスで20,000枚。たったの15,000枚だ、想像できるかい?"Live"は45,000枚、素晴らしい。そして"Udu Wudu"は今のところ35,000枚、これ以上の売上は望めないほどだ。次のアルバムは少なくとも50,000枚プレスしなくては。50,000以上行くとおもしろいな。100,000行けば万々歳だ。
Atem: そうですね。しかしその時にも配給の問題は残りますが。
KB: 単に配給だけの問題ではない。聞き手が気に入れば、配給など無くても売れるんだ。それ以上何らの問題もない。そんな状況が何年も続いているのは嘆かわしいことだと思っている。明らかに我々にとって無益な状況だ、尤も妨害にもならないが。Ange を見てみたまえ。彼らは配給は受けていなかっただろう。だが彼らは観客に受けている。それが観客のレベルにお似合いだったからだ。Ange がやっていたのはくだけたセリフ入りのしゃれ小唄だった。そしてみんなはそれを買った、それだけのことだ。Magma は売れず、Ange はゴールドディスク。まったく時代遅れの、分かり易く低俗なしゃれ小唄、それが彼らのレベルだということだ。
Atem: Chateauvallon
フェスティバルでは観客がはっきり分かれてしまいましたね、分裂したといってもいいほどに。
(訳注: Chateauvallon は70年代フランスの代表的音楽フェスティバル。このインタビューが行われる前の大会では
Magma, Ange の両方が出場したが、Ange ファンは Magma を罵り、一方 Magma
ファンは Ange のステージ中暴動まがいの騒ぎを起こした。)
KB: それは音楽の質が原因なのではない。質だけ見ても駄目なんだ。ふたつのことを両立させる必要がある。大ヒットを飛ばしてもその音楽がお粗末では意味がないし、反対にいくら良質の音楽をやっていても誰もそれを知らないのではやはり意味がない。後者も前者同様お粗末な音楽だといわざるを得ない。何故なら人々に目標を与えることが出来ないからだ。本物の音楽を演り、かつそれが現実の力を持つことが大切だ。
Atem: しかしそれがうまくいったためしは無いのでは。
KB: いや、例えば Bob Dylan、彼はリーダーでありヒットも飛ばしている。多少身を持ち崩しているかも知れないが、リーダーであることは間違いない。The Beatles、彼らもリーダーであり、天才的だ。The Rolling Stones、彼らもまたリーダーであり、完全無欠と言える。彼らのコンサートに行ってみるがよい。何も言うことがない、完璧だ。私自身感動することは少ないが、それでも...やはり完全だ。何も言うことが出来ない。品性が感じられないとは言えても、「この音楽には何の力も無い」とは言えない筈だ。
Atem: あなたの言う「力」とは何のことですか?
KB: 実際に多くの人が踊ったり楽しんだりできることを言っている。それはミュージシャン自身にとっても素敵なことだ。例えば Stones。彼らは不器用だと言うこともできるが、不器用なりに統合されている。それは彼らが本物だと言うことだ。Mick Jagger はやりたいことは何でも出来る。本物だからだ。滑稽なことをしても、それが本物だから笑えない。
Atem: しかしそれで本当に観客を啓蒙していけるのですか?
KB: それはまた別の問題だ。そこが Magma と Stones が違うところだ。彼らはそんなレベルにはいない。「素晴らしい!」とは言えてもそれが大事なことではない。「すごい!まったく見事な見せ物だ。」とは言えるが、それでもそこからあるレベル以上の何かを引き出せるかどうかはまた別のことなんだ。私はかつて Stones や同様に Elton John のコンサートを見たがそこには何か引き出せるものがあった。Elton John のコンサートは音楽的に完璧で、見せ物としても「力」を持っていた。単なるポップソングにすぎないが、そこには何ら批判する点はない。
Atem: なるほど、しかしあなたはそれが楽しかったですか?
KB: 100パーセント楽しむことはできなかった。何故なら私は見て考えるからだ。本物だけが持つ深みというものがある。これはごまかしようのないものだし、仮に一時はごまかせても決して長続きしない。神に誓ってもよいが、偽物は長続きしないのだ。偽物はすぐに自滅する。コンサートを見たとしよう。いろいろと飾り付けられてはいても、本質は隠せない。演奏に心がなければ、始めから終わりまでひと味足りない感じがするもんだ。一曲聞いてダメだと、全ての曲始めから終わりまで身近に感じることができない。大事なのは飾り立てたうわべでなく、全ては内にある。内にあって知性ではなし得ないものだ。と言うのは、Mick Jagger は別にして他の者は、知性で演奏するほどには知的でないからだ。故に彼らは知性ではなく心で演奏していることになる。だからうわべはインチキ臭く、汚く、ショウ・ビジネスに過ぎなくとも、それは本物で、私はそれに確信がある。上手く言えないが、そういうことだよ。
Atem: Magma の歌詞はあなたが考えているのですか?
KB: いくつかの詞は私が考えた。
Atem: コバイア語でですか?
KB: 何より、私は表象文字を沢山デザインした。単語も幾つも考え出したよ、但しそれに意味を付けるのは Christian だが。それぞれの文字に明確な意味を与えるのは私の仕事ではなく、(あまり多くはないが)各々の要素を象徴するものとしての表象文字を作ったということだ。私は既に一つの完璧なシンボルマークで Magma の人物、楽器、全ての要素を象徴させている。この作業には2週間かかった。将来的には別のシンボルが現れることもあるかも知れないが、とにかく今はこのシンボルが完璧だ。Magma をよく知れば、まさしく私の言っていることが分かるはずだ。とはいえ、一つの言語体系を丸ごと作り上げるための作業となると及びもつかないよ。いくら私でも2000年のテスト期間はおけないからね。だから実際には古代エジプト哲学のような本物の霊妙な思想体系に頼らなければならない。経験のレベルを超えて宇宙を認識する古代エジプト哲学は真の科学として今でも生き残っている。直感的・霊感的で、これはなかんずく現代の科学には見いだせない物だ。ここにも幼子イエスが登場する。肝心なのはイエスが世の中をまるっきり変えようとして、失敗している点だ。
Atem: あなたの書いた詞は、何を語ろうとしているのですか?
KB: うーん、それはとても微妙な問題だ。コバイアの物語は、誰も言葉の意味が分からない、他の言語に翻訳できないものだから。
Atem: コバイア語はゼロから考え出された言葉なのですか?
KB: 全てを無から考え出すということは絶対にない。考え出したというより発見したと言うべきだ。
<remerciment a Vincent Martin pour sa aide a traduire, a Jerome Schmidt pour ses aides a traduire et m'imformer, a Olivier Jouan pour la presentation digitale de la version original>
Entretiens
avec Magma
Magma との対話 1975年12月14日 Atem マガジン no.2
より翻訳転載
質問・構成 Gerard Nguyen, Michel Venchiartti 日本語訳 宮本重敏
Atem: Utopic Sporadic Orchestra の事ですが・・・ Christian
Vander
がそこに関わったということで、様々な誤解を受けていますね。実際中身は
Magma だと信じ込んでいる者もいますし・・・
(訳注: Utopic Sporadic Orchestra についてはこちらを参照ください。)
Christian Vander (以下CV):
まず最初にミスがあった、バスドラムの Magma
マークのことだ。僕は黒のストッキングを買ってきて、そのマークを隠してはみたが、不充分だった。マークは完全にはずしてしまうべきだったのだが、それにはドラムを分解しなければならず、音の調子が狂ってしまう。皮を張り替えると、新しい音を見つけるのに3週間かかるのでそれは出来なかったんだ。
僕は Janick
の手伝いをしたかっただけだったんだが、今となってはそれが手助けになったのかどうだか・・・僕はベストを尽くしているつもりだが、いつも曲解が着いて回る。Nancy
へは Magma の出演依頼も来ていたんだが、それをやれば、Janick
の居場所がなくなると思って断ったんだ、その方が Janick
にとって良いだろう、あの日は Janick
の舞台にしようと思って。あの日の出演者が Bernard Lubat, Richard Raux,
Janick Top, Magma という話を聞いたとき、僕は言ったんだ。「もし Magma
が出ると、他の者がみんな Magma に喰われてしまう。Magma
が辞退すれば、この日は Janick
がメインになるだろう。」僕はステージから一言言いたかったんだ。「さあ、ここに一人の天才を紹介いたします。」でも
Janick
は、彼を弁護したり、彼の音楽を紹介したり、彼について語ることは望まなかった。彼は成り行きに任せる方を選んだんだ。
あの演奏は Magma のものと言っても良い、いや Magma ではなく Zeuhl
だ、Janick が嫌がらなければだが、Zeuhl
と言って良い内容だった。なぜなら Magma
の音楽と彼の音楽は、僕にとっては同じものだからだ。世の中は
Janick
をきちんと再認識すべきだし、当然そうなっていくだろう・・・
Atem: この時期に "Live"を発表した理由は?
Klaus Blasquiz (以下 KB): ひとつ言えることは、みんなは実際のステージの音を、少なくともそう言う風に聞こえるレコードを欲していた・・・。ここ3年間の Magma の音楽を総括してみせる必要があったんだ。焼き直しやスタジオ用にアレンジされたアルバムではなくて・・・
Atem:
ジャケットにメンバーの写真を使ったのは今回が初めてですよね?
(訳注: CDしか知らない人のために。当時発売されていた2枚組LPでは見開きジャケットの内側に、メンバーのステージ写真が何枚も並んでいた。)
CV: それは非難ととるべきなのかな?
Atem: そうです!
KB: そこら辺が我々の弱いところだ。あれは一種の譲歩なんだ。
CV: 僕は反対だったし、我々としても当然非難したよ。でもカラーのジャケットにしたのは、我々の責任じゃない。作業は我々の手の届かないところで行われたんだ。
Stella Vander (以下 SV): Klaus はすごく細かい処まで指示した案を送りつけたんだけれど、それはほとんど無視されてしまったんです。我々は校了したものを送れと要求しましたが、それはついに届きませんでした。言っておきますが、このアルバムはアメリカでも同様の形で発売されることが決まっていたので、ジャケット制作は向こうで行われたのです・・
KB: 何人かのスタッフはちゃんとした指示を出してくれているものと期待していたのだが、その信頼は見事に裏切られたよ。
SV: ともあれ、あの写真について非難してくるのは、Magma をよく知っている人、Magma に注目している人、Magma が大好きな人だけです。あのアルバムで初めて Magma に出会った人達はそんなことはありません。本当に Magma が好きな人ならば、アルバムの出来さえ良ければ、ジャケットに写真があるか無いかは些細な問題として見過ごすことが出来るでしょう。
KB: 更に言えば、あれはライブ録音だ。だから、Magma も例外でなく、ジャケットに写真がある方が理にかなっているとも言える。本当に好ましいのは、Magma 全員がステージで演奏している写真が1枚、まあ・・・「ひっそりと」、載っているというのだろうな。だいたい Magma の写真は、不細工に写っているものばかりで困っているんだが、あの写真は比較的出来が良くって、その点では救われているよ。
CV: その内、またジャケットに写真を使うのは間違いないよ、いつになるかは分からないけれど。
Atem: やっかいなことに、Magma のアルバムジャケットを「俗っぽい」ものにすれば、今まで Magma を知らなかった人もレコードを聞いてみようというきっかけになるんじゃないか、と考える人がいますよね。
SV: そういう考え方をするのは、Magma を自分らだけのものにしておきたいと思っている人達です。彼らは Magma の第一発見者になりたがっているだけです。
KB: そういう輩はまるで Magma のためにならない、ということははっきりさせておきたい。なぜなら連中は、自分らのちっぽけな紳士気取りを満足させ、Magma を自分たちのちっぽけな仲間内だけのものにしようとするからだ。
CV: こういう連中というのは、いつか Magma がうまく行って大勢の人に受け入れられるようになると、「Magma は商業主義に陥った」と言うに違いないよ。Magma の音楽は何一つ変わることはない。もし変わったとすれば、それは連中の方なんだ。このことは頭に入れておいて欲しい。
Atem: 3枚組アルバムというのは Magma
ファンでさえ一部敬遠する者が出てくる危険を孕んでいると思いますが、まだ発売されていないのは値段が問題になっているからでしょうか?さらに前述のエリート達を満足させるだけに終わらないでしょうか?
(訳注:ここで話題に上がった3枚組アルバムとは、当時録音計画のあった
Emehnteht-Re
のことか?いずれにせよ、正式な発売の告知は一度もなかったとされている。)
KB: 我々がレコードを出すのはなんのためだと思う?レコードが売れれば、より多くの人が Magma を聞く機会が出来る。その売上で Magma はバンドを維持して行くんだ。3枚組アルバムだから売れないというのであれば、そんなもの作るに値しないよ。誰も買わないから誰も聞かないなんて馬鹿げたことだ。それなら別々に3枚アルバムを出した方がましだ。
CV: 初めの頃、本当に Magma を愛してくれる人は40人しかいなかった。いや多分15人だ。だから僕らはこう考えることが出来た。「今はたったの15人だが、もっと多くの人を引きつけて見せるぞ。」 Magma
を自分たちだけのものにしようとしている連中、自分をエリートだと思っている連中、3枚組アルバムを買うか買わないかで
Magma
ファンか否か、ふるいにかけられると考えている連中、そんな奴らは勝手に自滅していけばいいんだ。彼らは一生涯そんな感じだし、そんな連中に関わることはないよ。世界中の人間と縁を切るくらいの覚悟が必要だ。僕自身、
Magma
を結成した日に、一旦あらゆる人間と決別したんだ。当時の最良の友とさえも。僕は言った。「もしいつか、また友達が出来るとしたら、それは本当に分かり合える友達だけだ。見せかけだけの連中はもう要らない。」そんなものは友達とは言えない、吹けば飛ぶような中身の無い連中と供に歩むなんで出来ない。どれ程「あなたを理解しています。」と口で言ったとしても、中身が無い連中はやっぱり、どうしても空っぽなんだ。そんな連中と言葉を交わす必要はないんだ。絶交してしまえば良い。パリにいるミュージシャン連中とうわべだけのつき合いをしようとしても、僕はこう言ってしまうだろう。「Bob
Brault よ、おまえは糞だ!」「Christian Decamps、
おまえは道化師か?おまえの声帯をえぐり出して、フライにしてパセリを添えて喰ってやる。」話している内にうんざりして、ついにはこう言ってしまう。相手のやっていることが、完全に偽善だと見極められた時には、そんな奴らとは絶交してしまえばいいんだ。同じ精神を共有できる仲間は必ずやって来る。しかし偽善は何の役にも立たないんだ。僕の場合で言えば、
Christian Decamps との上っ面だけのつき合いは決して無いだろう。今後50年間、彼とは顔を合わすまい。彼が変わるより先に、きっと死んでしまうだろうな。そんな連中と話をして、連中の言葉を聞いていると、こちらの方が元気が無くなってくる。僕は自分のやっていることをしっかり自覚している人間は深く尊敬しているんだ。フランスのミュージシャンについてもしかり。かつては世界でも最も素晴らしい音楽をやっていた。心から音楽を愛し、情熱的で・・・それが今や強欲漢の集まりだ。見ての通りだよ。自分の権利主張ばかりだ。そんな連中とは、とてもじゃないがジャムセッションなんか出来ない。僕は奴らとは違うんだ!たまに誘われてもこう言ってやるのさ。「オーケー!そのうちにね。」最近もこう言ってやった。「こんなにミュージシャンが沢山いたんじゃ、まじめにやっていられないだろう。」普通じゃないよ・・・・
(訳注: Bob Brault は Martin Circus のドラマー。Christian Decamps は Ange
のリーダーでヴォーカリスト。当時 Christian Vander
は低俗なポップミュージックをやっている者に対しては、かなり辛辣な物の言い方をしていたようだ。対して
Christian Decamps も Magma
のことをファシストの集団だとやり返し、一時両者は泥試合の様相を呈していたらしい。)
Atem: もし仮に3枚組アルバムを作るとすると、そこで起きてくる最大の問題は、どの曲も似通ったものにならないか、ということだと思いますが?MDK と Kohntarkosz の間にある隔たりはとても重要でしたが、Kohntarkosz とその次に来るものの関係は更に重要な意味合いを持ってくるように思えるのですが。
CV: 僕は次のアルバム用に録音するのは Theusz Hamtaahk にしようかそれとも別の曲にしようか迷っているんだが、どちらにしろ、時間が必要だ。みんなの心の準備が出来て、Kohntarkosz や、やがてやって来る Theusz Hamtaahk が少しでも理解できるように。僕らは既に "Live" で過去の総まとめはして見せた。次は更に上を目指して、それを乗り越えて行くだけだ。でも、余り心配することはないよ。
KB:
僕らの書く曲と実際の演奏には大きな差はないんだ。但し時間は必要だ。曲を覚えて、準備して、練習して、そしてステージで演奏する。だから、曲を書いて演奏するというのは一繋がりのことで、しかし、それがどう理解されるかというのは別の問題だ。そこにはある程度解釈の幅がある。問題とはそういうことだ。
慌てることはない。とにかく3枚組を出すとなると、3年はかかるからね。
Atem: ファーストアルバムを今聴き直してみると、どんな感じがしますか?
CV: いつでも同じ気持ちで聴けるよ。何も変わっていない。いつでも同じものだ、しかし同時に進歩もしている。僕らはいつでも Magma の曲を、その時期にあるべき姿で取り扱うことが出来る。その時期に参加していたミュージシャンに任せる部分は変わって行くからね。いつでも各ミュージシャン達に自己表現の余地を与えてあるんだが、それが普通だろう。だが核になる部分は全て作曲されている。同じ曲でも別の楽器、別の音で演奏を続けていけば、曲が古びていくことはないよ。何も変わってはいないということだ。
Atem: 例えば現在のラインアップでも、ミュージシャンには自己表現の余地が与えられているということですか?
CV: その通り!
Atem: 今のラインアップは理想的と言えるでしょうか?
(訳注:当時のラインアップは Christian Vander, Klaus Blasquiz, Stella
Vander, Bernard Paganotti, Didier Lockwood, Benoit Widemann, Patrick Gauthier, Gabriel
Federow の8人。)
CV: いいや。
Atem: 理想はどこにあるのですか?
CV: いつかはそこに辿り着くだろう。それには時間がかかる。それは仕方のないことだよ。
KB: 今現在理想像がはっきりしていれば、もうそうしているよ。理想実現のための時間を稼いで、ミュージシャンを選び、グループとして纏め上げる、そのうちみんなも後に追いてきているだろう。そのためにも、"Live"はもってこいだ。"Live"は単なるちっぽけな出発点ではないんだ。見方を変えれば"Live"は準備期間に他ならないということだ。
CV: 今僕らが演奏しているのは、だいたい3年前に作曲されたものだ。もうすぐ
MDK が生まれて4年半になる。Theusz Hamtaahk は4年前に書いたが、それでもまだ録音していない。Kohntarkosz
も3年前の曲だし、同じく3年前に書いて、今後半年はまだ演奏するつもりの無い曲だってある。大事なのは、飛び越すようにいっぺんに大きく進み過ぎないことだ。既に
Kohntarkosz
は余計なものを取り去った簡素なものになっているのに、本当に理解できる人は誰もいない。
忘れてはいけないのだが、MDK は大きな3部作の結論部分だということだ。第1楽章は
Theusz Hamtaahk と名付けられるだろうし、第2楽章は映画 "Tristan et
Iseult" に使われた Wurdah Itah で、MDK が第3楽章にあたる。
Kohntarkosz は Emehnteht-Re の導入部だ。
もしそうしようと思えば、 Magma の音楽は今の10倍も複雑なものに出来る。今の
Magma の音楽には幾つも妥協がある、しかしそれは Magma
で演奏している者だけが、場合によっては聞き取ることが出来るものだ。彼らでさえ、妥協があるとは多分知らないだろう。あるべき姿からすると3倍も簡素にアレンジしてあるんだ。しかし、もし3倍複雑なアレンジで演っても、結局「Magma
は聴くべき所がない。」と言われるのがおちだ。より高きを目指さねばならない。それだけだ。Magma
の音楽をポップミュージックと比べてはダメだ。MDK
はそこまで行っていないが、Kontarkosz などはリズムを見ると、Stravinsky
の「春の祭典」と比肩しうる内容がある。けれどこういう音楽と比較しようとする人はいない。
KB: Magma と Stravinsky を比べるのは、最近になって Stravinsky を知った連中だよ。世界を見れば他にも比較の対象はいっぱいあるだろうに。確かに我々は Stravinsky が好きだが、それはちょっと触れてみたという程度のもので、音楽の根っこは別のものだ。
Atem: 今ステージで演奏しているのはどんな曲ですか?
KB: Theusz Hamtaahk、Emehnteht-Re からの抜粋、今はただ Chorus
de Batterie
と呼んでいるが再構成して将来のアルバムの題材とするつもりの曲、それに
Lihns、MDK が続く。
Chorus de Batterie
を演っているのは2つの理由がある。まずひとつは、これがまったくそれだけで独立した曲であって、遊びや冗談でやっているのではないということを分かってもらうため、もうひとつはこの曲が芝居ががった処があるので、初めて
Magma
を見に来た人を引きつける見せ場として役に立っているということ。更に言えば、これはひとつの曲なんだから、出来る限りステージで演って練り上げる必要もある。但し一旦レコード用に録音してしまえば、Christian
が一人でこの曲を演る事はなくなるだろう。他のパートも付け加えられて、Magma
は全員でステージに立つことになると思う。その時はドラムの即興も無くなるということだ。
Atem: 最近のフランス国内のツアーでは、アドリブ的なソロパートが増えているように思えたのですが。ギターとかヴァイオリンとか・・・
CV: それは極めて一時的なものだ!ソロというのは僕にとってははかないものだよ。そう言うと、「John Coltrane だってソロをやっていたでしょう?」という者がいるかも知れないが、矛盾は無いよ。Coltrane は今言っていたような意味でのソロはやっていないんだ。どのライブでも彼はいつも同じストーリーを語っていた。「今日はコーラを飲みます。次の日はトンカツを食べます。」といったことは彼は言わない。彼が語っていたことは常に同じ事で、だからそれはソロとは言えないんだ。Coltrane はその晩演奏するフレーズを、ホテルで前もって考えておいた。それは細部にまで及ぶ作業だったのに、実際にはそうは聞こえないんだ。他のミュージシャンがやっているのはただのソロであって、「今日はこんな風にドーンとやってみよう、明日はあれをやろう。」という具合だ。見るべきところは何もない。
Atem: "Live" に関して、もう一つ気になって入るんですが、こういうソロに対して、既成の音楽ジャンル、特にジャズロックを引き合いに出して、レッテル張りをする人が多いですよね。まったく驚いてしまうんですが。
CV: その通りだ。君の言うのももっともだよ。しかしそれは僕に向かって言うべき事ではなく、他のメンバー達に言えば良いことだ。レコードに収められた"Mekanik Zain" の即興パートでも、あれは最大の誠意を持って演奏されている。確かにあそこにそそぎ込まれたエネルギーは素晴らしく、しかも完全にコントロールされている。曲の横糸にあたる部分は作曲されているんだ。ともかく、実際あれはソロとは言えないものになっている。
Atem: ライトショウの使用はいつ頃からの予定ですか?
KB: 今後我々と一緒に仕事をする連中がいるんだ。しばらくの間、イメージの投影だけだったが、彼らはやがてステージの一部として参加して来るだろう。この連中は "Barved Zumizion" というコバイアの名前を持っている。彼らはレーザーや火を使った仕事をするんだ。来年からの Magma のショウでは、楽器を演奏するミュージシャン以外にもおもしろいものがお目にかけられるよ。
Atem: 「Magma
の音楽は鏡である。人はそこに自分自身の姿を見いだすだろう。」とおっしゃっていますが、この言葉には残念ながら当てはまらない音楽もあるとお考えですか?
(訳注:"Live"のジャケットに印刷されていた言葉。)
CV:
そうだね。そしてそれを見分ける直感力が必要になる。これこそが世界最高だ、世界一美しい、ああだ、こうだ、と言うことはできるが、それが本当かどうか見分けるのは各々の人間にかかっている。可能性は無限と言ってよいほど存在するけれど、実際に最高のものはただ一つしかあり得ない。自分について言えば、僕はそれを間違えることはない。世界にサックス吹きは数あれど、初めて聞いたときから、Coltrane
しかない、と僕は思った。色々言ってくる人も沢山いるよ。「いやいや、Sonny
Rollins がいるでしょう。」 「いやいや、某がいるでしょう。」
でも僕は断言した。「違う!Coltrane だ!」
僕は自分の直感に自信があった。そして間違ってはいなかった。Coltrane
だけが魔法のようなエネルギーを放ち、そしてその力は今でも充分感じられる。彼はサックスという楽器に決着をつけてしまった。今では誰も彼もが
Coltrane
の様に吹いている!それぐらいなら、止めてしまった方がいいんだ!Coltrane
はサックスにケリをつけてしまったんだ・・・事実上。それは認めなくては。
更に言えば、みんな自分の言いたいことを言うことはできる。僕は、「Magma
はああだ、Magma
はこうだ」と言える。僕だけがそれを言えるんだ。ただし、それを感じ取れるだけの人がいて、彼らがそうだと信じられるだけのエネルギーが
Magma
の音楽になければならない。言葉はそれだけでは何の役にも立たない。誰かが僕に言う、「私は今空を舞うような気分だ、最高の状態だ。(原文
Je plane)」彼はそう言うが、ただ自分でそう言っているだけで、僕には何も感じられない。本当に舞い上がっているんなら、何も言わずに、地面から50センチほど浮いてみせればいいんだ。その時こそ僕は、彼の言葉を信じよう。ただ口で言ってもダメなんだ。
「私は、他の人よりも優っているんだ。間違いない。」などと言ってくる連中には、「ああ、確かにそうおっしゃる権利はございますよ。」と言ってやるんだ。少なくとも僕には、そんなことは感じられない。いつの日か本当に彼らがそうなった時に、そうなるとしてだが、その時には僕もそれが感じられるだろうし、理解もするだろう。
(訳注:文中の原文 Je plane、本来は「グライダーや鳥のように滑空する」という意味だが、近年のフランスの口語表現では、ドラッグなどで気持ちがハイな状態であることを表すのに良く用いられているので、こう訳しておいた。当時の
Gong
などに代表されるヒッピー・ドラッグ・カルチャーに対する皮肉とも取れる。)
KB:
音楽は最も分かりやすいコミュニケーションの手段だ。それ以上に有効な手段として言葉があるが、言葉は同時に最も誤解の多いやり方でもある。各々が、独自の言い方を持っていて、言葉を再定義してしまう。あらゆる表現が再定義され、あらゆるイメージが再定義され、それで果たして我々は何か物事の本質を説明することが出来るのだろうか?
実際我々の言うこと全てが何かの役にも立っているかというと、そうではない。全てに本当かどうかの検証が入る。我々は何も教え示してはいないんだ。我々は励ましはする、しかし教え示すことは何もない。「Magma
は鏡である。」という言葉についても、そんなことは言わなくってもいいんだ。結果は同じ事だから!
Atem: あなた方はどこかで、「目的のない音楽をやるなんで想像もつかない。」と言っていますね。Magma の音楽は、その目的が十分伝わり得るとお考えですか?とりわけコンサートにやって来た人達の心境がどこか変わってしまうほどに。
CV:
コンサートが終わってしまえば、またみんな日常の生活に戻ろうと思う、そんなことのために僕らはやっているんじゃない。もっと長い時間、遅くまで演奏したからといって、会場を出ればいつも通りというのでは、そこにはただ音楽があるだけということだ。何にもなりはしない。彼らも短い時間の間だけなら、変わることもあるだろう。僕らの音楽も今はそれだけの力しかないから。でもいつかは、彼らの考え方を変えてしまうほどの演奏が出来るようになるだろう。それでも変わらない人もいるかも知れないが、今からそんなことを考えても希望が無さ過ぎる。たとえ
Magma
の音楽がある人達に何らかの影響を与えたとしても、結局その人達が、その影響から生まれる何かをずっと持ち続けたい、そういう意志が必要になるんだ。音楽は、二度と目覚めたくない、一生見続けていたいと思うほど素晴らしい夢のようなものであることが望ましい。みんなは
Magma、もっと正確に言えば Zeuhl
以外の音楽も聞くことが出来るし、そんな音楽を演奏するグループだって至る所にいるけれど、極端に言えば、そういうことは問題にすらならない。Magma
の音楽は、今はまだ幾つも欠点があるけれど、それでも Magma
を聴いた後で、例えばロックンロールを聴いて、同じ感動を味わえるとは思えないんだ。そんなことはありえない。両者は違うものなんだ!
僕が Coltrane
から受け継いだものを、もしいつかみんなに首尾良く与えられれば、それはそれだけで大したものだ。多分
Magma はそこまで行けると思うが、それで充分としてはいけない。Coltrane
は僕に生き方を教えてくれた。それは素晴らしいことだ。生涯のうちに言うことやることがころっと変わってしまう人もいる。かつてはあれやこれやと一貫性の無いことばかりして、曲をやれば品の無い和音を叩き鳴らしていた、こういうことを知っていれば、今仮にみんなに受ける曲を書くとしても、誰がそんな奴を好きになれようか。Coltrane
は下品な音は一音も出さなかったし、音楽や情感を弄んだこともない。有名なミュージシャンで、自分ではたいそう早く上手く弾けると言い張る連中もいるが、俗っぽい音を寄せ集めて綱渡りしている様なものだ!さもなければ、わざと小難しく作った音楽の中でメロディーだけポップにするかだ!まったく恥ずかしいことだ。そんなインチキをしていれば、いつかは自分に還ってくる。
Coltrane
はただ音を出していたんじゃない。彼は自分の全人生を一音一音に込めて吹いていたんだ。彼は演奏する時は命を掛けていた。そんな彼に対して、口笛を吹いたり、気に入らないと非難する人がいるだろうか?ステージに命を捧げている人がいる、そんな彼をとやかく言う権利など無いんだ。非難してよいのは、ステージで道化を演じる奴、自己満足のために演奏する奴、そんな哀れな連中だけだ。しかし
Coltrane
はステージで死ぬ覚悟が出来ていたし、またそれを本望とさえ思っていた。「今夜の
Coltrane
のソロはちっとも良くなかった、何しろ・・・」と言う連中だっていた。しかし、何だと言うのか?何しろなんだと言いたいのか?あんたらに何を言う権利があるというのか?よくもそんなことを言う勇気があるもんだ、自分の持てる全てを差し出してくれている人に対して。自分の命を捧げてくる人と出会うことはまれだけれど、誓ってもよい、Magma
は、僕はステージに自分の命を掛けようとしているんだ、とことんまで。もしかしたらそれほど上手くは出来ないかも知れないが。しかしみんなに生きる意欲、そして自らも与えようという意志を持ってもらおうと努めることが大事なんだ。しかしそんな人物と出会うことはまれで、それ故人々は良くない方向へと走ろうとする。与える代わりに、奪うことばかり考えているんだ。「この日の演奏には不満だ。だから殺してやる。」しかし、知っての通り、Coltrane
は既に死んでいる。彼は自分の命を捧げ尽くして死んだんだ、だからこそ今でも彼は自らの命を与え続けているんだ!それでも我々は彼から奪おうとする。死者を更に殺そうなんて、おかしいのは我々の方だ。彼は激しく生き、そして宇宙の一部となった。
最善を尽くしてこそ、人は最善のものを手に入れるんだ。
Magma のメンバーについても、僕の様に感じていれば、各々が「私の生き方に間違いはありません。」と言える筈だ。僕は Klaus のことをそうだとは言えないし、彼には彼自身にそう言って欲しい。各々が自己の責任で行動し、その結果は各々に還って来るんだ。
Atem: Magma の音楽に暴力的なモノしか見出さない人が多いのですが・・・本当に Magma の音楽は暴力的なのでしょうか?それとも別の何かがちゃんと存在しているのでしょうか?
CV: 浅いレベルで Magma
の音楽を聴いていても、暴力的なモノしか受け止められないんだ。実を言えば、僕の耳には
Magma
の音楽の中に一音だって暴力は聞こえないよ。音楽の中には、まあ言ってみれば、神と悪魔の闘いがある。とりあえず、Magma
の音楽の中には60%の神と40%の悪魔がいるとしておこう。もし悪魔の部分が無かったら、そこに情熱は無く、つまり何も無いということになる。音楽はまるでやり甲斐のないものになってしまう。
現に、最初の段階で聞こえてくるのは、90%の悪魔と10%の神か、もしくはその逆だ。どちらを望むかということだけだ。各々は自分の本能に従って聞いているんだ。攻撃的な気性の人は
Magma
の音楽の攻撃的な部分ばかり感じ取り、そこが好きになる。そういう連中は僕のところへやって来てこう言うんだ、「私は同じ精神を持ち、黒い服を着ている。すなわちそれは
Magma だということを意味し、それは憎悪である。Magma
はああであり、こうであり・・・」彼らは何も分かっていない。
また逆に Magma の宗教音楽的な(原文:Spituel)面ばかり表層的に捉える人達にも同じ事が言える。
ぼくらは悪魔も神も等しく音で表現するだけだし、それを聞き取るのはみんなだ。神はすなわち悪魔であると信じる人だっている。例えば?Kohntarkosz
だ!パート2はとても静かな小バラードで始まっている。たまたま
Martin Circus のメンバーと話をする機会があったんだが、彼は Magma
の音楽は攻撃的すぎて嫌いだった。その彼がこう言った、「そのかわり、Kohntarkosz
パート2の出だしは素晴らしい、見事だ・・」しかしこの様な曲なら、1日で10億曲だって書ける!だからといって、私は温和で、思いやりがあり、子供に優しい父親だろうか?そうではない、そんなことは有り得ないんだ!Kohntarkosz
のもっと激しいパッセージの中にだって、この小・・・バラードの中にあるモノとまったく同じモノが存在しているんだ、ただそれを聞きたいと思わないだけなんだ。ただ自慢するためだけに、ちっぽけな耳あたりの良いメロディーを作る者がいて、またそれを聞いて、「ああ、美しい。」と応える者がいる。そんな錯覚はもう沢山だ。Magma
には 'エネルギー' がある、さもなければまるで無いかだ!Magma
にはエネルギーがあり、いかなる理由でも、それが消え失せることはない。
人は常に自分より上のものを崇拝し続ける、何故ならそこには決して到達出来ないことを知っているからだ。神を崇拝するのは、それがあまりに高いところにいるからだ。人は常に到達し得ない目標を置いてはこう言うんだ、「神様じゃないんだから、うまく行かないのは私のせいではない。」
少しは神に近づこうという人が出て来ても、その瞬間からずっと周囲に叩かれ続け、必然的に彼らは人間らしくなくなっていく。彼らはもはや人間らしさを持たないのだから、現実の人間に比べて人間らしくない行為をするのはたやすいことだ。常により理想的な人間に近づいていくという意味で、我々は非人間的だと言える。人間という存在は、マシュマロの寄せ集めなんかじゃないんだ。マシュマロのように味気ない人生を歩む人もいるが・・・
世界中の人々はもっと激しい生き方が出来る。それを望むだけでも充分だ。
神と悪魔、それは陽と陰、白と黒、プラスとマイナス、生と死・・・常に、生あるものの二面性を表しているんだ。さもなければ、全ては虚無だ。ともあれ、全てが終われば虚無が訪れる。
もしいつか人間が絶対者へと進化し、偉大なマスターとして悟りを得れば、そんなこともまったく無用になる。戯れのゲームのようなものなんだ。戯れでないものはただ一つ、虚無だけだ。全ては幻影に過ぎない・・・・・
<remerciment a Vincent Martin pour me donner cet article et ses aides a traduire, a Jerome Schmidt pour ses aides a traduire et m'imformer, a Olivier Fromentin pour m'informer, a Gerard Nguyen pour sa permission gentile >