KA (Kohntarkosz Anteria)

 

Christian VanderがKAを作曲したのは1972年と言われている。
およそ30年の時を隔ててようやくスタジオ録音されたこの曲について
若干の確認を行っておきたい。

<1972年>
1972年に発売されたMAGMAのレコードはシングル「Hamtaahk / Tendei Kobah」と
コンピレーション「Puissance 13+2」(Mekanik Kommandoh 1曲収録)のみ。
あえてUniveria Zektの「The Unnamablesとシングルカットされた「Altcheringa / Undia」を追加してもわずか4点。
しかもMAGMAの音源はいずれも1971年に録音されたもの。
それではMAGMAは1972年には活動がなかったかというと、そんなことはまるでない。
12ヶ月休むことなく最低でも120を超えるライブが確認されているし、
映画「億万長者わが道を行く(Moi y'en a Vouloir des Sous)」への出演もこの年である。

1972年のライブにおける典型的なセットリストは
 Stoah / Kobaia / Sowiloi / Mekanik Kommandoh (Terrien si Je T'ai Convoqueを含む)
"Iss" Lansei Doia / Ki Iahl O Liahk〜Korusz

Theusz Hamtaahk3部作(Theusz Hamtaahk, Wurdah Itah, Mekanik Destruktiw Kommandoh)は
1971年にすでにその基本的な構想は出来上がっており、1972年のライブは見方によれば
1971年11月に初演されたMekanik KommandohがMekanik Destruktiw Kommandohへと
昇華していく過程を如実に表しているともいえる。

またコバイアストーリー(そんなものがあるとしての話だが)上の流れで見れば
地球を脱出してコバイア星へ行くというSFじみた話は実は1stアルバムで完結しており、
Theusz Hamtaahk 3部作はそれとはまったく別のテーマを持っている。
2ndに収録されたRiah SahiltaahkはTheusz Hamtaahk3部作(特にMDK)の習作と見るのが妥当であろうし、
Teddy Lasry、Francois Cahenのペンによる2曲は
「コバイアストーリーはChristian一人の聖域であって、他のメンバーはこの夢を彼ほど真剣には受け止めていませんでした。」
(Francois Cahen インタビュー Euro Rock Press vol.17)
という証言からも、コバイアストーリーとの関連は希薄である。

そして1972年に着想を得たKohntarkosz (Anteria)はTheusz Hamtaahkともまた別のストーリーに属しており、
それは未完の大曲"Emehnteht-Re"へと繋がっていく1大叙事詩の幕開けでもあった。

Kohntarkosz(コンタルコス)とは人の名前であり、
Kohntarkosz AnteriaはKohntarkoszの青年時代の苦悩と運命を描いた1枚の絵画のような音楽である。
やがて成人したKohntarkoszはEmehnteht-Re(古代エジプトの支配者の名前とされる)の墓に入り、
ある秘密を伝授されることになる。
(詳細なストーリーは<1975年>の章で後述。)

<1973年>
MAGMAは1973年に入って1月と2月にはほとんど(多分ゼロ)ライブを行わず、
パリのStudio AQUARIUMにおいて大掛かりな録音を行ったと思われる。
そのひとつが1月に録音され、1989年にSeventh Records自らの手で発掘CD化した「Mekanik Kommandoh」。
これはStorchhausオーケストラのコーラス隊を従えて行われた"Mekanik Destruktiw Kommandoh"のデモ録音と
捉えるべき内容で、実際Mekanikはこの時点でほぼ完成しているといってよい。

もうひとつが2月15日に録音され「Inedits(幻の音像)」で公開された"Gamma Anteria"である。
"KA"の最終章である"Gamma Anteria"が単独で録音されたとは考えにくく、
多分"KA"全曲がこの時録音されそのテープがどこかに眠っている可能性は高いと見ている。

MAGMAはこの年4月に渡英しMANOR Studio(Virgin Record & Mike Oldfield!!!)でサードアルバム"MDK"の録音を行った。
マネージャーGiorgio Gomelskyの辣腕により、初のアルバム国外発売に続き
英米でのライブも敢行した1973年は、MAGMAにとって順風満帆の船出の年であったかのようにも見えるが、
実情はもう少し複雑であったのかもしれない。
例えば1973年4月15日、"MDK"の録音終了後、Chrisitian Vander, Jannick Top, Klaus Blasquiz, Rene Graberの4人で
深夜にわたって繰り広げられた即興演奏(AKTから「Sons」として発売されている。)!!
方向性がきちんと見えているバンドの主要メンバーがこんなことをする必要があるのだろうか?

「音の前、構築される前に出てくるもの。これは一つの実験だった。暗闇の中でミュージシャンが集まって、
音階だとか既存の音楽方法を使わず何ができるかを、みんなでやってみたんだ。
子供時代にかえってウォーッというようなレコーディングをしたかった。まさに"MDK"を録音中のある日のことだった。
Jannick Topが一日中オルガンを弾いていてその雰囲気ができていた。
とても特殊なものでジャーナリストには受けが良くないが、自分では成功したと思っている。
私もJannick Topもこれが好きだ。」
Christian Vander1998年初来日時のインタビュー Marquee Vol.8 通訳 黒木朋興

熱心なMAGMAファンの方なら「Les Ponts de Ce, Anger May 11 1973」
というCD-R3枚組海賊盤を聞いて、"KA"が演奏されていることにお気づきかと思う。
(これと同内容のライブテープが現地のファンの間で"1973年8月14日Poitiers"のライブとしても
流通しており、どちらが本当の日付なのかは地元フランスでも謎のままになっている。)
この日のセットリストは

KA
(improvisation?)
Theusz Hamtaahk
Soi Soi
Sons et Chorus de Batterie (Ptah)
MDK

これだけ見るとすっきりまとまったライブを想像してしまうのだが、
01. 実際には各曲の冒頭に集団即興とおぼしき演奏を追加。
02. "Theusz Hamtaahk(半分ほどWurdah Itahのメロディーが出てくる)"と”Soi Soi"では
だんだんとりとめのないジャムセッション風の演奏になって終了。
03. 全編集団即興とおぼしき曲の存在。
など、MAGMA34年の歴史を見ても他に例を見ないドロドロした演奏を繰り広げている。

あくまで推測に過ぎないが、この頃Christianはすでに"Kohntarkosz"→"Emehnteht-Re"の着想を得ており、
そのまったく新しい音を具体化するための生みの苦しみを味わっていたのではないだろうか?

続いて「Inedits」収録の"Gamma"1973年6月の演奏を聴くと、
これは前述の"Gamma Anteria"のインスト版といった感じの演奏。
実際1974年には"KA"の最終章である"Gamma"は独立した小品としてライブの最後にアンコールとして演奏されていたので、
この頃すでに"KA"の1部抜粋ではなく、独立した曲として扱われていたのかもしれない。

同年7月には初の渡米。8月25日には英国Reading Festival出演。
MAGMAの名前とその音楽は急速にフランス国外へ広まっていく。
(日本でもMDKのLPが当時A&Mと契約していたキングレコードから邦盤発売となった。)
非常に残念なことだが、73年後半のライブ音源というのは本国のマニアの間ですらほとんど出回っていない。
どのようなセットリストがステージにかけられていたのか?
"Kohntarkosz"の初演はいつごろなのか?
1973年に3回だけ演奏されたという"KA"は実際どうなったのか?

唯一聞くことの出来た9月Cagnes sur Merにおけるライブ音源では

Theusz Hamtaahk
Soï Soï 〜 KMX

の2曲が確認され、即興多用のドロドロした感じはまったくなくなり
バンドとしての方向性が定まった印象が強く、この流れはそのまま1974年へと引き継がれ
発展して行ったのではないだろうか?

<1974年>
1974年に入るとKAはすっかり姿を消す替わりに、Kohntarkoszがライブの定番となる。
1974年の典型的なセットリストは

1st set
Kohntarkosz (Hamtaiで始まる!)
Soi Soi 〜 KMX
Korusz (Chorus de Batterie)

2nd set
Theusz Hamtaahk
(メンバー紹介)
MDK

encore
Gamma

という感じであった。
Gammaが独立した小品として演奏され、またOm Zankaが初期のKohntarkoszの1部として生き残る。
(Om Zanka入りの"Kohntarkosz"は「BBC 1974」で確認できる。)
5月には再度英国MANOR Studio入りして「Kohntarkosz」とシングル「Mekanik Machine」の録音。
このスタジオヴァージョンでは"Kohntarkosz"からすでにOm Zankaパートが消滅しているが、
6月のライブではまだOm Zanka入りの"Kohntarkosz"演奏が確認されている。

さてMAGMAはこの後伝説のColmar公演(10月5日)までツアーを重ねるのだが、
不思議なことに(同時にすごく残念なことに)'74年後半のライブ音源がまったくと言って良いほど出回っていない。
唯一「Inedits」収録の"KMX-B XII opus 7"(9月26日)から
この時期の壮絶な演奏が想像できるぐらいである。

上記Colmar公演の後Jannick Top脱退に伴いMAGMAは一旦活動停止を余儀なくされるが、
オーディションにより、新ラインアップが出来上がり、リハーサルが始まる。

<1975年>
「Inedits」には"Om Zanka"というタイトルのリハーサル音源が収録されている。
これはまごう事なき"KA"の生き残りであり、
少ない回数ではあったと思われるが実際にステージで演奏もされている。
"Gamma"は完全に姿を消し、"Kohntarkosz"は現在聞かれる形で完成を見る。
更にこの時期"Emahnteht-Re"の冒頭のコーラス部分が登場。
(Seventh盤「Live」に追加収録された"Emehnteht-Re(announcement)"がそれで、
CDではフェイドアウトで終わっているが実際は"Korusz"につなげる形で演奏されていた。
例えばアルバム「Korusz」収録の"Korusz Y"と続けて聴くとおおよその感じはつかめると思う。)

"Kohntarkosz"は"Emehnteht-Re"の一部とは言えないが、
ある意味導入部的な曲と捉えることができる。
1974年のスタジオ録音盤のジャケットには
ただ「Emehnteht-Reの墓に入る。」とだけ記されていた"Kohntarkosz"だが、
1977年に発刊されたAntoine de Caunes著「MAGMA」103&105pにはこう書かれている。

「一人の男(Kohntarkosz)がある日古代エジプトの偉大な支配者の墓を発見する。
この支配者は自ら追い求めた目的、不死の秘法、にたどり着く前に暗殺されたのだ。
Kohntarkoszは墓の中を降りて行き、扉の前に到達し、
故Emehnteht-Reに供えられるはずだった天使達の歌声を聞いた。
Kohntarkoszが墓所の平墓石を押すと数千年かけて堆積した埃が彼の全身の毛穴から身体の奥深くへ入り込んだ。
彼はEmehnteht-Reの生涯のヴィジョンを、完全なヴィジョンを受け取る。
Kohntarkoszの意識は消え去り、Emehnteht-Reが生涯をかけた探求の全てが彼の中に出現する。
(我々は目撃者である。ただ2台のピアノが鳴り響き、ドラムの音はまったく、
あるいはほとんど聞こえない。これが秘法伝授の瞬間である。)
Kohntarkoszが目覚めた時、彼は自分が受け継いだものを無秩序な断片としてしか記憶しておらず、
それらを糾合しようとする。
生前のEmehnteht-Reが達した段階まで、Kohntarkoszは一生をかけてたどり着く。
宇宙に眠り、空間を漂うPtah神(エジプト神話に登場する創造を司る神)をあと一歩で復活、
すなわち物質化させることのできるその段階まで。
ゆえにPtah神は目覚めることなく眠り続ける。
何者かが新たに発見した公理で彼を目覚めさせるその時まで。
Emehnteht-Reはあと一歩のところまでたどり着いていた。
Kohntarkoszは一生涯遍歴を重ねようとするだろう。」

1975年後半になるとChrisitianの関心はこの"Emehnteht-Re"と"Theusz Hamtaahk"の完成に向けられ、
"Om Zanka"もすっかり姿を消してしまう。

<1977年>
VanderTop体制の構築と、アルバム「Udu Wudu」録音、そしてルネッサンスツアー。
様々な想いが交錯しつつ空中分解した1976年を経て、
MAGMAはフェイズT最後の残光を新ラインアップを率いて輝かそうとしていた。
1977年春、"Om Zanka"が後半に他で聴くことのできないパートをつなげた形で一時復活する。
Klaus Blasquizはこの曲を"Zanka"とも"Kohntarkosz 2"とも紹介しており、
これが20世紀最後のKAライブ(抜粋)であったと思われる。
この後MAGMAはいわゆるファンキー路線に突入し、KAに目が向けられることはなかった。

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Q:どのレコード・CDにも入っていませんが、
Rene GarberやJannick Topらと一緒に長大な組曲をライブで演奏していたことがありますね・・・
(ちょうど、"MDK"と"Kohntarkosz"が融けて混ざり合ったような)

A:DON'T DIEの友人達がその曲からの抜粋を全部まとめてくれてあります。
"Kohntarkosz No.1"と名付けたこの曲をMAGMAは3回ライブ演奏しています。
1973年の暮れも近い頃St Michel sur Orgeで行ったコンサートの模様をステレオで録音したとても良いテープがあって、
私はそれにドラムの音を付け加えようとしました。音のない部分が気になって、きれいに聞こえなかったのです。
しかし私がリズムを追加したのはちゃんと音の入っている方のトラックでした。
私が自分でコンサートをめちゃくちゃにしてしまったのですから、不平を言うことさえ出来ません。
(Christian Vander インタビュー 1997年10月: Art Zero)

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1983年から休眠状態に入ったMAGMAであったが、
地元フランスではMAGMAの音楽に心惹かれた若い世代のミュージシャンが
MAGMAのコピーバンドをいくつか結成した。
その一つがDON'T DIE(リーダーはMAGMA2回目の来日時にMDKを歌っていたJean-Christophe Gamet)である。
彼らはしばしばOFFERINGとジョイントコンサートを行いMAGMA人脈との交流も盛んであったが、
1996年Toursでのステージで、KAのpart1&2を披露している。
恐らくは1973年当時のあまり状態の良くないテープからの耳コピーだと思われるが、
見事な復元ぶりに頭が下がる思いである。

<2002年〜>
こういった経緯を経て2002年1月のLe Sunset, Paris連続公演でMAGMAは"KA"を復活させる。
以降の情報は少し耳聡いファンならほとんどご存知のことと思う。
今や完全にライブの中核をなすレパートリーとしてもてはやされており、
多少のアレンジ変更を経てスタジオ録音盤がようやく2004年11月8日に発売となった。

 

 

「自らの運命を探し求めて苦悩するKöhntarköszの若き日々。
その間も彼の歩みは神の摂理に導かれ・・・」


CDジャケットに寄せられた上記の一文からも分かるとおり、
KAはEmehnteht-Reの墓を見つけ出す以前のKohntarkoszの物語である。
12月22日発売の日本盤には、Christian Vander自身から邦盤発売に寄せられたコメントが付される。
もう少し詳しいストーリーが紹介されているはずなので、ファンは必見である。

 

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