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マグマ インタビュー 3

Magma Interview 3

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Il Etait une Fois...Les Freres Guillard 1985年2月
Entretien Zuress / Entre MAGMA et OFFERING 2004年8月

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(昔話…Guillard兄弟) Il etait une foisles freres Guillard

WEIDORJEからODEURS・MAGMAを経てHigelinへ。
サックス奏者Alain Guillardとその弟のトランペット奏者Yvon Guillardは
フランスの音楽シーンでももっとも多様で力強い体験にいくつも関わってきた。
自らの才能を長年人のために捧げてきた2人だが、
1985年中にファーストアルバムを録音し、
わが国のレコード屋に花を飾るという彼ら自身の掛けに出る決心をした。
彼らの過密なスケジュールの僅かな合間を利用して、
これから彼らが作ろうとしている音楽を少しでも明らかにするために、
そして彼らが辿って来た道程の中でも重要ないくつかの時期をここに再現するために、
インタビューを行った。

最初に音楽の世界に足を踏み入れたのはAlainだった。
9歳の頃にSaint-Maurの国立音楽院に入学。
クラシック・サックスの初歩から始め、学校が提供するあらゆる課程を履修していった:
ソルフェージュ、聴音書き取り、和声学、管弦楽法、楽曲分析、音楽史…。
5歳年下の弟Yvonは、それより少し遅れてクラシック・トランペットの世界で兄と同じ道を辿ることになる。
音楽院の課程に並行して、多くの先輩ミュージシャンがそうであったように、
彼らは大衆的なダンスホールに出入りし、
小編成のバンドに参加してニュー・オリンズやスウィング・ジャズ、R&Bを演奏したし、
AlainはParisの居酒屋へも足を伸ばし、多くの仕事をこなした。
たとえ実際にあまりお金にはならなくても、自らの音楽を育むには役に立ったのである。
そしてついにその日が来た。

Alain Guillard(以下AG):私がChamps Elyseesのクラブでサックス奏者の仕事をしていた時、
ギタリストのMichel ETTORIから、
当時の人気歌手Michel DelpechのバックバンドをBernard Paganotti、
Patrick Gauthierと一緒に組まないか、という誘いを受けました。
このバンドは実はBernardとPatrickが立ち上げようとしていた
WEIDORJEの活動を可能にする経済的庇護を得るための口実に過ぎませんでした。

wb01158_.gif (255 バイト) WEIDORJE wb01158_.gif (255 バイト)

WEIDORJE.JPG (70990 バイト)

 

AG:最初、私がWEIDORJEのメンバーになる構想はありませんでした。
Delpecheのためのセッションの途中でBernardとPatrickは私をWEIDORJEの音楽に組み入れようと考え始めました。
そこで私は弟を彼らに紹介し、彼もまたWEIDORJEのメンバーに加えられたのです。
セカンド・キーボード奏者のJean-Philippe Goudeがやって来るずっと前の話です。

NOTES誌:何故WEIDORJEを立ち上げようとしたのでしょうか?

Yvon Guillard(以下YG):当時1976年は、MAGMAは満員の会場で演奏しその絶頂にありましたから、
WEIDORJEのような似通った精神を持ったグループを立ち上げたいと思っても
それはそれほど無分別な事とも思えませんでした。
潜在的な観客は見込めましたし、更にBernardとPatrickには彼ら自身の音楽の構想があり、
MAGMAを辞めた後、ライブの勘を失うことは避けたいと思っていました。

NOTES誌:グループの歩みはどんな具合でしたか?

AG:事前の準備作業を入念に行った後、
ある仲間の尽力のおかげで最終的な機材のサポートを受けることができたので、
WEIDORJEは最初のツアーに出かけ、それは非常に幸先の良い結果となりました。
観客はとても喜んで我々を受け入れてくれるように思えました。
ツアーから戻った時点でFrederic LEIBOVITZとの出会いがあり、
それがファーストアルバムの録音へと進展したのです。

NOTES誌:今、このアルバムのことはどのように感じていますか?

AG:音楽は今でも素晴らしいと思いますが、むしろ録音の面ですごく古めかしい感じがします。
録音技術の領域の進歩はとても目まぐるしいですし…
付け加えれば、録音の時の状況も理想的とは言い難いものでした。

YG:ともかく、我々には途方もない仕事をやり遂げる力はあったということです。
我々はほとんど1日中一緒にいました。
BernardとPatrickは主旋律の形で自分達の曲を持ち込んできて、
全員で曲を最終的な形に練り上げていきました。
丸一日かけても、15秒のパートを纏め上げられなかったことさえありました。
この段階になるとMichel Delpechとは縁を切っていたことは言うまでもありません。
我々の頭の中にはWEIDORJEの事しかなかったのですから。

NOTES誌:グループ内の雰囲気はどうでしたか?

AG:非常に神秘的かつ怪しげな雰囲気に包まれていました。
我々は完全に音楽に没頭し、非常に固く結束していました。
そして、よくある事ですが、行くところまで行ってしまうと自壊が始まったのです。
新たなツアーに出てみましたが前のツアー程の成功は得られず、
また大変な作業を重ねて準備してきたセカンド・アルバムがどこからも拒否されたのを見るにつけ、
各メンバーは、とりわけセッションミュージシャンの仕事を探して、バラバラな方向に向かい始めました。
食べていくためには止むを得ない事でした。
特にBernardとドラマーのKirt Rustは家族を養っていかなければならなかったのですから。

YG:その頃はもはや他の仕事の合間にしかWEIDORJEに時間を費やせなくなっていたんです。

AG:そんな状況にもかかわらず、
Michel Ettoriの後任ギタリストとしてFrancois OvideやPierre Cherezeを招いたりして、
我々はまだWEIDORJEを続けていけると信じていましたし、
それだからこそ一か八かの国外ツアーをやってみようという気になったのです。
そして、スペインでのあるコンサートの結果グループの運命が決まりました。
旅費を自腹でまかなって行ったスペインで、我々の音楽を聴こうとさえしない大勢の聴衆を前にした時、
BernardはWEIDORJEの活動停止を決心したのです。
グループの大黒柱は彼だったので、みんなはしぶしぶそれに従いました。

NOTES誌:WEIDORJEの解散は、ひとつの時代の終わりに呼応していたとは思いませんか?

YG:全くです。MAGMAはすっかり下火になっていましたし、ジャズは活気を失っていました。
ジャズ・ロックはまあまあ活気がありましたが、
しかしこの手の音楽は我々にはただの折衷に思え、露骨に感情を呈し過ぎるので我々の興味は引きませんでした。
我々はあの頃デビューしたロックグループ、特にBIJOUと一緒に仕事をする道を選びました。
しかしながら彼らとの仕事は短期間で終わりました。
我々はすぐにその頃企てられた独創的な試みに参加したからです。
私が言わんとしているのはODEURSのことです。

wb01158_.gif (255 バイト) ODEURS wb01158_.gif (255 バイト)

AG:我々はODEURSの一部のメンバーとは顔見知りでした。
我々はRamsesスタジオでWEIDORJEのデモ録音を行ったのですが、
そこはある意味彼らの巣窟のようになっていたからです;
同様にAlain Ranval(Ramon Pipin)が我々に参加を呼びかけてきた時、
我々は既に彼らと交流の場を持っていたのです。
おまけに、弟はあるメンバーとはAU BONHEUR DES DAMESというグループで一緒に演奏した事のある間柄でした。

NOTE誌:WEIDORJEとODEURSという、一見ほとんど共通点を持たない2つのグループで演奏する事に、
何か困難な点はありませんでしたか?

YG:WEIDORJEを離れた後、我々は方向を少し見失っていました。
それまでの3年間に自分たち自身で周囲との間に壁を作ってしまっていたからです。
しかしながら、我々は直ぐにODEURSに引き込まれていました。
2つのグループの間には形態の違いはあっても、
本質の面では同様のエネルギーと集団での作業を優先する姿勢があったからです。
それは我々にとって欠かす事のできない要素です。

NOTE誌:あなた方にとってODEURSとはどのような存在でしたか?

AG:ODEURSは大きな冒険でした。
まず、このグループは非常に大人数で構成されており、まるで劇団のようでした。
そしてそれは我々が新しい試みに挑戦できる可能性が開けたということです。
本当に壮大なコンサートが何度もありました。
Parisのオルセー(Orsay) 劇場や、その他多くの場所での熱狂的な演奏を思い出します。
ああ、しかしWEIDORJEの時と同様にお金の問題が持ち上がってきました。
結果、ある者は他の仕事が忙しくなり、ついにはメンバーが無視できないほど減少してしまったのです。
こうしてグループは悪化を続け、
我々とGuy KhalifaがChristian Vanderに誘われて新生MAGMAに加入する段になって
ついに分裂してしまったという事です。

wb01158_.gif (255 バイト) MAGMA wb01158_.gif (255 バイト)

20080826_143555578.JPG (7023 バイト)      20080826_143319734.JPG (9083 バイト)

Theatre de Bobino、Paris 1981年5月

 

NOTES誌:MAGMAへの加入に当たって、Christianは何度もあなた方に頼む必要はなかったという事でしょうか?

AG:仰る通りで、我々の最終的な夢はそれでした。MAGMAで演奏するためなら何でもした事でしょう。

NOTES誌:ChristianのColtraneに対する偏愛を知った上で、
あなたがサックス奏者としてMAGMAに参加するに当たって、
その任に堪え得るかどうか不安はありませんでしたか?

AG:どちらとも言えません。
実際ChristianはMAGMAの中でColtraneの熱狂的な側面は追及しておらず、
むしろTOWER OF POWERのような管楽器スタイルを持ったR&B寄りの音楽を求めていました。
私に関して言えば、King CurtisやJunior Walker風の演奏を心掛けなければなりませんでした。

NOTES誌:最近のMAGMAとそれ以前のMAGMAの決定的な違いは、管楽器の導入とKlausの脱退だけが原因ではないと思うのですが?

YG:その通りです。Christianは以前の編成のコーラス隊はそのままにして、
そこに管楽器を追加しようと思っていました。
そして更に言えば、管楽器奏者が2人で良いのかどうかもはっきりしませんでした。
Klausに関しては、
我々が参加した後のコンサートにも彼がMAGMAに占めていた位置が痕跡としてはっきり現れています。
それほど彼が重要な役割を果たしていたという事です。

NOTES誌:MAGMAでの体験は役に立っていますか?

AG:途方もない体験でした。我々はMAGMAですごい1年を経験しました。
グループ内の雰囲気は素晴らしく、コンサートは驚異の連続でした。
Christianが常に大きく見えていました。

NOTES誌:間も無く発売になるMAGMAの新作 (訳注:「Merci」のこと)は
あなた達がまだグループにいた頃に構想がスタートしていますが、
アルバムにも参加しているのでしょうか?

YG:ああ、残念ですが答えはノーです。
Christianと一緒にデモを作ったり土台になる作業を全部やったりしているだけになおさら残念なことです。
管楽器のパートの録音中、我々は別の仕事を抱えていました。
そして最終的に我々に代わって別のミュージシャン達が演奏したのです。
このことは後悔しています。壮大な作品になるであろうこのアルバムで演奏することを本当に望んでいたのですから。

NOTES誌:何故録音の時期にはMAGMAと疎遠になってきていたのですか?

AG:非常に単純なことで、MAGMAのコンサート機会はどんどん少なくなってきていたからです。
我々はMAGMA以外に、特にJacques Higelinと一緒に仕事をしていました。
1979年から彼のバックで吹いていたのです。

wb01158_.gif (255 バイト) Higelin wb01158_.gif (255 バイト)

NOTE誌:1979年から今日まで、あなた方が常にHigelinの傍らにいたということは、
彼があなた方にとって重要な存在であったということでしょうか?

AG:実際、それは我々にとって信じがたい規模に及ぶ大きな冒険でした。
Higelin自身がそのことに気づいていたかどうかは分かりません。
彼のことが好きな理由は沢山ありますが、
まず彼の音楽にいんちきがないこと、
次に彼がミュージシャンを尊敬し愛していることを挙げておきましょう。
彼は分類不能な人間で、まさにあらゆる役をこなす旅芸人でした。
彼はSydney Bechetのレコードに参加したことさえ我々に告白しました。
彼は命の素晴らしさを知っている人間です。
我々はJacquesを大いに尊敬していますし、
彼を優先するために、他の仕事を一杯断ってきました。
弟にはHallydayから、私にはFrance Gall から"Zenith"の仕事の依頼が来たこともあるのですが、
我々はJacquesとのアフリカツアーを取りました。
こちらの方がより豊かな経験になることは確実だったからです。

NOTES誌:彼のコンサートでは、実際お客がまずHigelin目当てでやって来るのを見て、欲求不満を覚えることはないのでしょうか?

YG:少しはね。皆Jacques目当てでやって来るのは事実ですから。
そうであってもお客はステージで起こる事全てに熱心に観入ってくれますし、
ミュージシャンの演奏にも耳を傾けているのは間違いありません。
コンサートの最後に我々に話しかけてきたファンの中には我々のことを知っている人もいました。
Bernard LavilliersのバックでFrancois BreantやPascal Arroyoが演奏しているのを我々が知っているのと同様に。
実際そんな人達のためならありったけの力を振り絞って演奏する価値があると思います。

NOTES誌:人の裏方として演奏するに当たって当然感じることのある欲求不満の話にもう一度戻りますが、
それをバネにあなた方も自分達自身の音楽をやろうと思ったのでしょうか?

AG:自分達の音楽を創りたいという想いが欲求不満の感情から発しているとは思えません。
ご存知のように、Higelinや我々が参加してきた大グループの他にも、
我々は様々な人のために沢山の仕事や編曲をこなしてきました。
(Lavilliers, Valerie Lagrange, Yves Simon, Philippe Chatel, Nina Hagen…)
あまりに何度も繰り返すので、必然的に音楽が頭の中に出来上がってきたのです。
ですから私達の音楽はむしろ過去の体験を全て音楽的に総括したようなものだと思っています。
より正確に言うとすればそういうことです。

wb01158_.gif (255 バイト) LES FRERES GUILLARD ET LEUR MUSIQUE wb01158_.gif (255 バイト)

YG:現在まで、演奏の場が変わる度に違う事をやってきたような気がするにも拘らず、
そもそもの発端をR&B音楽の探求に持つ我々の音楽に一番重要な影響を与えたのは、
間違いなくWEIDORJEとMAGMAです。

NOTES誌:自分たちの音楽を広く知ってもらうために、これからどのようなことをしていくつもりですか?

AG:我々にとって一番厄介なところに触れてきましたね。
レコードを1枚作るためスタジオ入りする決心を1年以上前にしました。
我々は運良くGerard Lhommeと出会うことができました。
彼はChennevieresに24トラック録音ができるスタジオを持っており、2曲録音させてくれました。
それは我々が本当に作りたかった音楽で、付け加えればDOUBLE SIXのMimi Perrinが歌詞を書いています。
我々はBernard Paganotti、Patrick Gauthier、Christian Leroux、Mimi Perrin(vo)、彼の娘・息子らと一緒に録音しましたが、
それは本当に迫力ある音楽なのは確かです。
そうこうするうちに、我々はある音楽ディレクターに出会い彼は我々からテープを持って行きました。
彼はこの音楽はとても良くできている、と言った後で、
まだレコード発売は時期尚早かも知れないと説明しました。
それ以降何の動きもありません。テープの返却すらされていません。
彼はただ聴いてみただけだったのでしょうか?
実はもう彼のことは見限っているのです。

NOTES誌:レコードの製作はあきらめるということですか?

YG:もちろんそうではありません。
曲の題材はあるし、単に進め方を変えてもっとインストゥルメンタルな音楽に立ち戻るつもりでいます。
我々は要点を押さえた、単純なことをやりたいと思っているのです。
我々の考えは、片面は歌入り、片面はインストゥルメンタルのレコードを作ることです。
歌入りの曲は既に録音済みで、残っているのはインストゥルメンタルの曲だけです。
製作レベルであまり長時間スタジオに篭っている訳にはいかないので、
我々はグループを立ち上げてコンサートをやろうとしています。
曲が充分に調整された段階までいけば、
ほとんど"live"録りで最小限の時間で録音することができるでしょう。

NOTES誌:そのグループはどんな楽器編成になりそうですか?

AG:弟と私が管楽器を担当する他は、ベースとドラムとキーボード2台を考えています。
既にドラマーのMarc Hazonとはコンタクトを取っており、
ベースはEric Serraが弾いてくれれば良いと思っています。
機会があればBernard Paganottiにも参加して欲しいのですが、彼はとても忙しいから難しいかも知れません。
それに対してキーボードに関してはまだ全然何も決まっていません。
我々は時間を果てしなく無駄にしていますが、フランスでは万事こんなややこしい感じです。
MAGMAとBernard Paganottiだけが、各々自分達のアルバムを出していますが、
こちらは何年にも及ぶ作業と乗り越えなければない困難が山積みになっています。

YG:その次はアルバム配給の問題です。
個人的に我々は商売上手とは言い難く、この方面ではお手上げなので、
このアルバムをレコード屋の店頭に並べてくれる信頼できる人物を見つけなくてはなりません。
これはつらい仕事ですが、自分達の音楽に関わる事なのですから根気よく続けます。
でも、もし誰か他の人のためにそんな事をしなければならないとしたら、
同じだけの熱意が持てるかどうかは分かりませんね。

NOTES誌:Higelinのバックを務めるミュージシャンだということが、突破口を開ける助けにならないのでしょうか?

AG:それは絶対に無いですね。
我々の音楽と彼の音楽は何の関係もないし、
更に突き詰めれば、Jacquesは我々の音楽が理解できないでしょう。
まるっきり彼の世界とは別物なのですから。
場合によっては彼の側から何らかの援助があるかも知れませんが、
それが良い結果に繋がるかどうか何の保証もありません。
Michel Santangeli(Higelinのドラマー)のレコードを見ればそれが分かります。
そこには"Higelin推薦"という丸い勲章が飾られているのですが、
実際にはもはや彼のレコードは店頭で見かけることすらないでしょう。

NOTES誌:あなた方の話を聞いていると、
単にアイディアがあるだけでは駄目で、
一番難しいのはそれを実現させることだということに納得がいきます。

YG:特にフランスでは全てが難しいというのは事実ですし、
更にそんな状況を嘆いているのは我々だけではありません。
そうであっても、我々はまだ諦めたわけではありませんし、
最後には良い結果が訪れるという希望を捨てていません。
いずれにせよ、やれる事は全てやるつもりです。


Guillard兄弟との対話をこの短い希望の言葉で締めくくることにする。
後は、近い将来彼らのアルバムが日の目を見ること、
そして皆にコンサートで彼らの音楽に接する機会があることを祈るばかりである。
それは今を生きる、エネルギーに満ちた音楽を経験する重要な瞬間になるかも知れない。
彼らが私に盛んに勧めてくれたテープを聴く限りそう思えるのである。

Interview Alain JULIAC
NOTES N° 16 - 1985
年月 より翻訳転載

Merci Alain, pour ta permission gentile !

 

pazapa.jpg (7523 バイト)   Alain et Yvon Guillard / Pazapa

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MAGMAOFFERINGの間(はざま)で
Entretien Zuress - Entre MAGMA & OFFERING


1981年春: 20ヶ月の休止期間を経て、MAGMAは活動を再開した。
途中オランピア劇場での過去10年の回顧(Retrospektiw)という途切れはあったが。

Klaus Blasquizの脱退に伴い、グループは大きく変貌した。
堂々とした風貌と厳格さのKlausに代わって登場したスパンコールを身に纏った歌い手は
我々青年期のコバイア人から猛反発を食らった。
こうしてGuy Khalifa、またの名Zuress、は目の敵に、
ZEUHLの舞台に登場した"新たな娯楽性"と、音楽の展開にも通じていると見える意表を突くあの衣装の旗頭となってしまった・・・。
不当にその地位を手に入れたこの厄介者に我々は一分の賞賛も与えなかったことは言うまでもない。
1983年秋、MAGMAはその場所をOFFERINGに譲り、新たな冒険に旅立った。

槍玉に挙げられていた衣装は間も無くしまわれ、
年月と共にこのZuressは"Zu"と呼ばれるようになり、
奇妙なことだが、この頃になると新たな観点から、この人物が控えめながら有能なミュージシャンであることが明らかになってきた。
彼のピアノはOFFERINGの音楽的基礎の大事なパーツとして確たる地位を確保していた。
かくして我々は和らいだ反発的感情とちぐはぐな印象を抱いたままGuy Khalifaに会いに行った。

彼の際立った青年期の思い出の背後に隠された事実をほとんど知らないまま。
しかしながらよくよく話してみると、
Christian Vanderの傍らで、とりわけOFFERINGと共に過ごした彼の10年間が浮かび上がってきた・・・。

Entretien Zuress 01.JPG (109277 バイト)    Entretien Zuress 02.JPG (106104 バイト)

Guy Khalifa(以下GK):私の最高の思い出と言えば、1984年、「Merci」製作の頃です。
これはJohn Coltraneに捧げられたアルバムで、
ChristianはOtis Reddingに纏わる曲もやっています。
これは本当に異常な時期でした。
我々は1日24時間音楽を作り、それ以外のことは何もしなかったのですから。
こんな事ができたのはこの時期だけです・・・
私が言わんとしているのは1983〜86年の、
MAGMAとOFFERINGで過ごした10年間(1980〜1990年)の丁度真ん中に当たる時期の事だと思って結構です。
最初は適応期間と言いますか・・・Christianの宇宙に入っていくのは容易ではありませんでした。
それは彼が非凡で桁外れの途方もない人物だったからです・・・。
『しかし、あのグループはファシストの気があるんじゃないのかい?』
こう言って来る人全てに私は
『そんなことは全くない』
と答え続けました。
Bordeauxのラジオ放送中あるジャーナリストから
『内部ではMAGMA教への猛烈な改宗活動があるんじゃないか?』
という質問を受けたこともあります。
改宗活動などとんでもありません。気に入らなければ立ち去るだけです。
扉はいつも大きく開かれています。
Christianは何かを押し付けてくるような人ではありません。それどころか、
『大丈夫かい?他のやり方は見えてこないか?』
いつもそんな感じです。これは改宗活動とは正反対のものです。


MZ:この時期作られた曲は全て「Merci」や、更に後にOFFERINGへと帰結していきます。
Chrisitianは次第に歌と、より即興的な音楽へ向かい、音楽の構造は変わってしまいました。
"Theusz Hamtaahk"と"Another Day"の距離は大きく…。
あなたはこのOFFERINGへの移行期を身をもって体験した訳ですが。


GK:それはその通りです。MAGMAの結論は「Merci」でした。
MAGMAには一旦けりをつける必要があり、それがあの美しいレコード「Merci」になって現れたということです。
20年経ってもまったく古さを感じさせません。
音は少し柔らか味に欠けているかも知れませんが、今聴いても非常に豊かな、もちろん非常に良く練られたレコードです。
あれはとんでもない作品集です。
Christianと出会う前、私はColtraneの名前さえ知りませんでした。
何と力に満ちたカルテットでしょう!
私にJohn Coltraneの音楽を手ほどきしてくれたのはChristianです。
私はそのずっと手前に留まっていたのです。
Elvin Jonesでさえ私にとっては新し過ぎました。言わんやColtraneをや、です!
やはり私が好きな音楽はGlenn Miller、Duke Ellingtonのようなビッグバンドでした。
それが私の規範となっていました。実際本当の姿はそこにあります。
Christian Vanderは本当に現代的で、私は古典的な人間なのです。
それはStellaの見解でした。彼女が非常に重みのある言葉を投げかけたのです。
例えば『ここで出会った2つの世界を両立させることができたら素晴らしいと思いませんか?』
と言われて決断を促されました。
そしてそれがOFFERINGを生んだのです。
OFFERINGは多分にクラシックからの影響下にある音楽でした。
和声も、合唱も、即興も…。
例えば"Tilim M'Dohm"では導入部と中間部のパッセージをChristianから任されました。
あの部分を考えたのは私です。
Christianがメロディーを発見し、私に3度や6度の音程を使ったBach風のギミックを求め、それが導入部になったという訳です。
私がああいうパッセージを考えたのは、あの曲が完全にクラシック音楽の様式に則っていたからです。
Christianは当時私が取り組んでいたMilosz Maginの曲"ポーランド風三連画"を録音してみたらどうかとさえ言ってくれました。
曲が長すぎて最終楽章は収めることができませんでした。
あまりうまく演奏できていなかったこともありますが!
Christianは2楽章だけで満足しましたし、それで充分でした。
OFFERINGの中に近代クラシックの世界とジャズ音楽を交雑させるのは楽しいことでした。


MZ:Marseilleでの最後のコンサートの後、突然MAGMAは消え、そして10月にOFFERINGが現れました。
その一部始終をあなたは目撃しているのではないですか?

GK:正直に言いますが、私にとってそれは円滑な移行でした。
Christianは極度に周囲に気を使う人物で、彼のやり方はいつも同じです。
この時も事態はオーバーラップするように緩やかに移り変わり、私は不快な思いをすることはありませんでした。
一方私は観客の一部ではありませんでした!
受け手の側からはどうか分かりませんが、
送り手の側から見れば、大きな違いは見当たりませんでした。
音がエレクトリックなものからアコースティックなものに変わった以外は。
しかし今(2004年)になってみると、それさえも瑣末な事に思えるのです。
当時は根本的な事でしたが、今となっては細部に過ぎません。
我々はMontmagny(訳注:当時のChristianの自宅があった場所)でヤマハのアップライトピアノ1台でリハーサルをやりました。
我々が合唱し、歌って歌って…。
Christianは何時間も和音を鳴らし、我々は歌い、フレーズを探し、和声を付けました。
私が先に言ったオーバーラップというのは技術的なレベルでの話ではありません。
霊的なレベルでそれは起こったのです。
私は本当にMAGMAの終息とOFFERINGの発端は途切れることなく続いていたと感じています。


MZ:ともかくOFFERINGはスタートして、そしてSimon Goubertが登場しました。

GK:とてつもない男、Somon。彼はグループの起爆剤でした・・・。
彼はMAGMAには参加せず、OFFERINGになってからやって来ました。
ピアニストなら誰でも彼にコンプレックスを感じる筈です。
ドラマーでもやはり同じ目にあうでしょう。
Simon Goubertの即興ソロを聴くと、ピアニストとして平手打ちを食らったような気分にさせられます。
それはまさに熱狂的演奏です!
あなたの言う通り、Simon Goubertと共にあれは始まったのです、100%。
OFFERINGではより多くの訓練をしました。
MAGMAではOurgonとGougoを前面に立てて、落ち着いてピアノに向かっていればそれでよかったのですが、
OFFERINGはもっと不安定なグループでした。
皆は過度に慎重になっていました。
スカンジナビアツアーでのことです。
あまりに慎重に構える我々に対してChristianは言いました。
『聞いてくれ、やってはいけないことなんて無いんだ。
今日は互いに見つめ合っているなんて論外だ。
我々はここまで来たんだ。落ち着いて始めよう。』
我々は会場入りして、Chrisitanはアコースティックピアノに、私はフェンダーに向かって座りました。
ドラマーは・・・誰だったかな?


MZ誌:Michel le Bars。

GK:そうだ!Michelがやって来て腰を下ろす。
そして我々が腰を下ろしてから始めるまで3秒もかかりませんでした。
非常に強烈なやつを!
聴衆はずっと身動きできませんでした。
それはChristian流の解決方法だったのです。
壊れやすい雰囲気を避けるための。
壊れやすい雰囲気は要りません。
Christianはそんな雰囲気を嫌い、それ故あれは彼が見つけた気の利いた薬だったのです。
我々はどんなことが起こるのだろうと自問しました。
何しろ聴衆はフランス人とは違う感性で耳を澄ましているのが感じられたのですから!
フランス人の15倍は大きな耳が待ち構えていました。
まさに今あなた達が身構えているように。
ビシっと、パンチの効いた感じで!
あれはHelsinkiのことだったと思います。
音響バランスの段階から音が素晴らしく響いていましたし、
それは頼りない演奏は出来ないぞと言われているようでした。
だから我々は極上の響きを持った音でとことん突っ走りました。
全員が、45分の間全員がソロをとったのです。完全に全員で、しかも手抜き無しで!


MZ誌:ごく初期のOFFERINGのコンサートを私も見ました。
それはズバリBordeauxでのことで、皆ステージ用の衣装を着ていました。
OFFERINGがスタートしたばかりで、まだMAGMAのコンサートと告知されていましたが、
Christianがもはや全面的にドラムを叩かなくなった事で、まだ観客との間に行き違いがありました。


GK:観客はドラマーがドラムを叩かないのを見て、金を騙し取られたと感じていました。

MZ誌:Bordeauxでは打楽器奏者Sydney Thiamがいましたね。


GK:そうだ、SydneyとSteveがいました。

MZ誌:Steve ShehanとはForum des Hallesで管楽器奏者たちと一緒に演奏した…。

GK:その通りです!

 

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La Soucoupe, Saint Nazaire 1981年3月26日
Photo: Archives Jean-Christophe Alluin


MZ誌:OFFERINGの舞台ではMAGMAの時よりもずっとくつろいでいましたが…。

GK:滑稽な事ですが、私の父からこんな小言を言われた事があります。
『どこが面白くてお前はこんな音楽をやっているんだ!』
実際それがOFFERINGの入口でした…。
私はアコースティックなミュージシャンで、
1970年にベースギターを弾き始めた時も一度もこれが自分の楽器だと思う事はありませんでした。
私が得意とする楽器はピアノです、それもアコースティックの。
だからアコースティックなパッセージを弾く時に最も私の力が発揮できるのです。
OurgonとGorgoをバックにタフな歌を要求された時よりも容易に声が出せたように思います。
足掛かりとなる音が荒々しいものから軽やかなもに変化したからです。


MZ誌:あなたはより自由に振舞っているように見えました。

GK:まったくです。私はマルチ奏者でそこに私の価値があります。
私はOFFERINGで楽しんで演奏していました。
Christianは私に創り手としての責任さえ持たせてくれました。
それは主従関係のようなものではありません。
雰囲気は良好で、不平を言うものは一人もいませんでした。
大したお金にはなりませんでしたし、誰かが誰かを踏みつけにして財を成したという事もありません。
この雰囲気を壊さないようにとするStellaの気苦労は並大抵ではありませんでした。
『ボスなんぞ糞喰らえだ!』というような声は一度も聞いた事がありません。
Christianは自分のものは僅かしか持っていませんでしたし、それを常としていました。
Christianと出会う前、私は尊大な態度の"自惚れ屋"でしたが、彼は謙虚さというものを教えてくれました。
MAGMAは途方もないリズム学習の場ではありますが、私はリズム以上に謙虚さを学んだのです。
以前は誰かに負い目を感じるような事はありませんでした。
私は本当に思い上がっていたのです。
今では母親にきつく叱られる事があります。もやは自分に自信を持てないのです。
この世では執着すべきものは何も無く、全ては移ろって行くものだということをChristianは教えてくれました。
それは彼がそういう強い信念を持っているからに他なりません。

MZ誌:OFFERINGの話に戻りますが、これはコンサートが不調に終わったりする事もある難しい時期でした。
Christianの声の管理という問題もありました。
とことん声を出すリハーサルを長時間行うので、直ぐに声が嗄れてしまうとか。

GK:それは本当です。重要な事は音の響きでした。
もしもステージで音が響いていれば、音声のバランスとは何の関係も無く、嗄れ声で歌っていてもコンサートはうまく行くでしょう。
もし音が響いていなければ、たとえ見掛けは美しく見事な出来栄えでもコンサートは成立しません。
音響、それはFrancis Linonの仕事のことを言っているのではなく、あらゆる条件の総体で出来上がるものです;
会場、音声バランスに掛けた時間、聴衆の反応、天気、湿度…。200以上のパラメーターが存在します。
3回に1回は何かしらうまく行ったという印象を受けるコンサートがありました。
嗄れ声で歌われても、私はミュージシャンとして楽音を聴き取っているのです。
もし聴衆から"彼がドラムを叩くのは退屈だ"と言われれば、私はそれを受け入れますが、
自分でそう感じているとは言えません。
私が感じるのは聴衆の反応です。何が起ころうとその時コンサートは成功なのです。
そのために充分練習を重ねてきているのですから。
我々は沢山練習しました。1日に24時間、寝ている間でさえ…。
ともかく、一部は運と偶然任せのところはありました。
MAGMAでは音の響き以外のものが要求されました。
団結と一体性です。
OFFERINGでは団結は軽んぜられていました。なぜならそれは壊れやすいものだからです。
たとえギリギリ一杯の状況下にあっても、
私はWidemannやLockwoodが自分のアンプを一杯にセッティングしている状況を思い浮かべているのですが、
その中で彼らはひとつの音調を自在に操る事でしょう。
もしそれが気の利いたものでなければ全員がうんざりするしょうが。
OFFERINGではそれは許されませんでした。
それは繊細な感覚で、だからこそ音の響きは完璧でなければならないのです。


MZ誌:聴衆はついて行くのに苦労しました。
グループはZeuhlなMAGMAから"スパンコール付き"MAGMAへ、
そしてChristianがドラムを叩かないOFFERINGへと移行して行ったのですから。


GK:それに対する答えはしっかり準備できています。
Stellaが良く私に言っていたことです。
MAGMAを観に来る人の中には不動の中心グループがあると同時に、
次々と世代交代していく人々もいるのです。
期待を裏切られた人は二度と戻ってきませんが、彼らの代わりに若い人達がやって来ます。
もしある日Christianが弦楽四重奏をやったとすれば、
裏切られたと感じる人もいるでしょうが、同時に新しい聴衆も現れるのです。


MZ誌:裏切られたと言う人はいつでもいました。Jannickがやって来た時も、Mozeを惜しむ人がいましたし。

GK:私に対する意見はいくつも聞かされましたが、そんな事は重要ではありません。
Christianが本当の"ボス"である事が分かっていたからです。
重要なことは、彼が私の仕事に満足しているかどうかです。
結果はすぐには分かりません。
私は直ぐにKlausの代役を務められた訳でもありません。
彼は私に2年の猶予を与えてくれました。彼は冷静さと忍耐ということを教えてくれたのです。
テーマが始まるまで7〜8回和音が流れるのですが、それがとても長く感じられます。
私は急き立てられるようになって、いつもマイクの近くに立って…。


MZ誌:それがOFFERINGで学んだ事だったのでしょうか?

GK:そうです。私には皆を不快にするあの"せっかちさ"はもうありません。
あれは自惚れでした。
あなただって自分に自信があれば、自分にできる事をみんなに見せびらかしたいと思うでしょう。
しかしそれでは音楽とは言えないのです。
音楽とはChristianが言うように、"しっかりと地に足のついた"ものです。
さもなければ、それは失敗するでしょう。
Christianから教えられたのはそれだけです。
私がこの時心に刻み込んだ事に比べれば、お金とかそういったもの全ては何の価値もありません。
アルジェリア出身のユダヤ教徒の子として受けた教育のせいで私はうんざりするような人間になっていました。
私の母は『お前が最高の人間だよ。』といつも私を煽て上げていました。
私が国際コンクールで演奏した時、父は審査委員長のところへ『私の息子が優勝だ!』と言いに行ったぐらいです。
そんなことをされればあなただって自惚れた人間になってしまうでしょう。
だからいくつもの出会いが必要なのです。
忍耐、それはジャズの中でも学ぶ事ができます。
OFFERINGの時、我々はアコースティックピアノに合わせて1日最低でも6時間歌いました。
休憩の時、Coltraneのレコードを聴くのです。
それでステージでも我々は自分達の行き先が分かりました。
即興パートを演奏する時ですら。
時代を下るほどGuy Khalifaの仕事振りが感じられるでしょう。
最初我々は『こんな辛い目に会って何になるんだ?』と言っていました。
私には自分に全く相応しくないところにいるという自覚はありました。
私は偉大なグループの一員であることには満足していましたし、
ああいった観客からの疑いの声に不快な思いをする事もありませんでした。
他のミュージシャン達とはうまくいっていたのですから。
しかし私がKlausの理想的な後継者足り得ないこともよく承知していました。


MZ誌:OFFERINGには少しずつですが次第にミュージシャンが集まってきました。

GK:最初はSimon (Goubert)がいました。

MZ誌:それからベースにはFrancis Moze、その後Jean-Marc Jafetが参加しました。

GK:Jean-Marc、彼とは何度良いコンサートが出来たことでしょう!
彼は私と同じような教育を受けてきたので、冷静な演奏をするために大変な訓練を要しました。
私もそうでしたが、彼にも"奉仕者"としてのあり方を学ぶ必要がありました。
ある作品を演奏するとしましょう・・・。
その事がすっかり理解できるまでには時間が要するのです。
この職業をやるに当たって一方にはお金、もう一方には創造があります。
Christianは創造者で、しかも彼の作品は長く後世に残ることでしょう。
私は今でも時々彼の作品を取り上げることがあります。例えば"Zess"の導入部などを。


MZ誌;OFFERINGであなたの最高の思い出はいつ頃の時期ですか?

GK:それはもう、Simon Goubertがいた時です。
Simonがやって来てから1990年まで最も素晴らしかったのはヨーロッパツアーをやっていた時期です。
あの頃はFrancis Mozeもいて本当に一体感がありました。
結果としてあの頃が最も実のあった時代です。
音楽的に我々は絶頂にいました。
沢山のコンサートが組まれ、1回のツアー中40の会場で演奏し、音楽が紡がれたのです。
それ以降、あのようなことは二度と起こりませんでした。
その後時とともに緩やかな下降線を辿り、
Pierre-Michel Sivadierがやって来ると、
LES VOIXのような編成へと移行していくのですが、それも緩やかな変化でした。
1990年に私はChristianと仲違いすることも無く、静かに消えて行ったのです。

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"Joia"(左)  Theatre Dejazet, Paris 1987年5月   "Lush Life"(右)

 

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Bloomsbury Theatre, London 1988年1月16日
Photo:Franck Loray


MZ誌:Emmanuel Borghiがやって来て、その後Pierre Michel Sivadierがあなたと交代しましたよね。

GK:Dejazetで"Lush Life"を演った時にはManuとFrederic Brietがいました。
良い思い出ですが、かつてのような熱狂的で気の利いた演奏と言うよりはプロとしてのきちんとした仕事でした・・・。
ステージの演出も考えた・・・。
ヨーロッパツアーはもっとオープンで、
Chrisitanを交えた集団即興演奏で幕を開けましたが、同じ事をフランスでやるのは無理でした。
観客は満足していました。何が起きているのか、瞬時に理解してくれていたのですから・・・。

MZ誌:「白鳥と鴉」のCDはもう聴きましたか?

GK:この曲は沢山の作業と練習を重ねましたが、Christianが満足することは一度もありませんでした。
この曲の事は分かっています。黒と白の・・・。
Chrisitanは完成には長い時間が掛かりそうだと言いましたが、それからCD発売まで13年が経ってしまいました。
この曲はあまり私には関わってこないという感じは僅かながらしていました。
"Les Anges"という曲の時も私は自分の中から何かを引き出そうと努力しましたが、それはうまくいきませんでした。
私は天使ではないのですから!
"白鳥と鴉"ではChristianは少しバーを高く設定しました。
そしてちょっとバーが高過ぎると思ったら、私は下を潜ってしまうのです・・・。

 InterviewJean-Christophe ALLUIN & Didier HOUDE
2004
85日 於Bordeaux
Muzik Zuehl誌#23 より翻訳転載

Merci Jean-Christophe, pour ta permission gentile + 2 photos !

 

 

 

 

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