Magma History

Pre Magma 1948〜1969

Christian Vander 、1948年2月21日生まれ。
母親の名前は Irene 。
実の父親は Christian が生まれる前に姿を消す。したがって Christian は父親の顔を見たことがない。
フランスジャズ界と関わりの深かった母親はやがてピアニストの Maurice Vander と再婚。
このため Christian の法律上の姓が Vander となった。
しかし Christian は11歳になるまで伯父夫婦の元にあずけられ、母親がMaurice Vander と離別れたのが Christian 12歳の時というから、実際彼ははこの義父と暮らしたことはほとんど無いことになる。

「Vander という姓はベルギーのフラマン地方のもので、私の義父の姓です。
私は実の父には会ったことがありません。
私の子供時代というのは、二つの時期に分かれています。
私は11歳までは伯父夫婦の下で暮らしていたのですが、11歳からは母と暮らし始めました。
それまでは、1年に半年分ぐらいを不定期に母と過ごし、ジャズやミュージシャンのことなどを教わっていました。
母と暮らし始めるまでは、ほとんどクラシックばかり聴いていたのです。
ジャズを本格的に聴くようになったのは母のおかげです。
4歳の頃、母がクラブに連れて行ってくれたこともありました。」
(1998年来日時のインタビュー 「レコードコレクター98年10月号」 松山晋也 通訳・黒木朋興 より。)

ジャズ的な即興に敬意を払いつつも、Magma の根底に流れる構築的な美を求める姿勢はこの子供の頃のクラシック体験が基になっているのは間違いないだろう。Stravinsky や Bartok との出会いもこの頃である。
母親と暮らし始めるようになって、Christian 少年は急速にジャズにのめり込んでいく。
John Coltrane への傾倒は母親に負うところが大きい。

「Coltrane を初めて聴いたのは7歳か8歳の時でした。
Coltrane は、55年に Miles Davis のクインテットに参加し、
その後、自身の音楽的航海の第一歩として自分名義のアルバムを発表してゆくわけですが、
60年、彼がクァルテットを結成した頃に、改めて母に勧められ、本格的に聴き出したのです。」
(1998年来日時のインタビュー 「レコードコレクター98年10月号」 松山晋也 通訳・黒木朋興 より。)

Coltrane に関する補足

1953年、麻薬と深酒でかつてのアイドル Jonny Hodges のコンボをくびになった John Coltrane は、55年麻薬中毒の療養のために一時引退していた Sonny Rollins に代わって、Miles Davis のグループに雇われる。名作"Round About Midnight"や有名なマラソンセッション(アルバム4枚分の音を一気に収録)を経て、57年には Thelonious Monk のクァルテットに加わりさらに自身の音楽を深化させる(クラブ The Five Spot での長期共演が有名)。さらに Prestige レーベルと専属契約を結び、初のリーダーアルバム"Coltrane"、"Rush Life"を、また Blue Note レーベルに"Blue Train"を吹き込んだのもこの年。この"Blue Train"への米 Down Beat 誌の評が「敷き詰めた洪水のようなサウンド」を意味する sheets of sound であった。Coltrane が編み出したこの新しい手法は、58年 Miles Davis のコンボへの再加入を経て、翌59年の"Giant Steps"で確立され、更に翌60年に結成された自己のクァルテットで更なる完成を見る。Christian Vander が7〜8歳の頃初めて聴いたという Coltrane のプレイは多分"Round About Midnight"であり、本格的に聴き始めるきっかけになったアルバムというのは"Giant Steps"か60年吹き込みの傑作"My Favorite Things"あたりではなかろうか。

母親と暮らすようになったChristian 少年は数多くのジャズメンと出会ったようである。
11歳の頃から叩くことに興味を持った Christian はいろんな楽器でドラミングの真似事を始めている。
13歳の時、義父の親友であった Chet Baker が家を訪れた際、
変な打楽器を叩いている少年を見て、本格的なドラムキットを与える。
これが Christian Vander とドラムとの出会いである。
彼は特に誰かにドラムを習ったということはなく、一人で自分のスタイルを作り上げていった。
(Chet Baker がゲームでもするように Christian のドラムに合わせて歌ったことは何度もあるそうだ。)
17歳の時 Christian は初めてのバンド Wurdalaks を組んでいる。
これは R&B を演るティーンバンドだったそうで、バンドの名前はイタリアの昔話に出てくる悪鬼にちなんでいる。
その後 Bernard Paganotti と出会った Christian は意気投合し Les Chinese というバンドを組む。

「このころ(16歳でプロのミュージシャンを目指し始めた頃)というのは、Christian Vander と出会った時期でもある。実際私達はいつも一緒にいたし、好きなアーティストの新譜がでるのを興奮しながら心待ちにしていた。」
(Bernard Paganotti インタビュー 「Marquee vol.049」 中西暢久 訳・黒木朋興 より。)

Les Chinese のメンバーは
Christian : drums、Bernard : bass、Gilles Benoit : guitar、Jean-Jaques Ferry : guitar の4人。
Jimi Hendrix, Otis Redding, Sam & Dave, Spencer Davis Group などのカヴァーに加えて
オリジナル曲もいくつか演っていたが、
その中に Christian と Bernard の共作になる "Nogma"という曲もあった。

「(Nogma)はJimi Hendrix から James Brown まですべてに影響されていたし、
それは後に発展する音楽の兆しを含んでいた。」
(Bernard Paganotti インタビュー 「Marquee vol.049」 中西暢久 訳・黒木朋興 より。)

ギタリスト Gilles Benoit が辞めるにあたって、彼らはバンド名を Cruciferius Lobonz に変えるが、間もなく Christian Vander にとって大事件が起こる。それは John Coltrane の死である。(1967年7月17日)
しかし、Christian Vander は事前にそれを予想していた節がある。

「1966年、"Live at the Village Vanguard Again!" に入っている "My Favorite Things" のイントロのソプラノを聞いた時、私には彼がまもなく他界するということがわかったのです。
私はそのことを当時の友人達に話しました。」
(Christian Vander 「Marquee vol.050」 訳・黒木朋興 より。)

それが現実のこととなり、
自らの心の中に大きな位置を占めていた John Coltrane を失った悲しみから、
Christian がイタリアへ行きを決意するのは1967年冬。
Bernard  Paganotti は当時を振り返ってこう言っている。

「John Coltrane が死んだ時、Christian はとても衝撃を受けて、
バンド(Cruciferius Lobonz)の音楽活動をやめることを決め、
R&B のヴォーカリストを連れて、イタリアに行くと言いだした。
(中略)
外国に行くことによって現状をあきらかにできると考えていた。」
(Bernard Paganotti インタビュー 「Marquee vol.049」 中西暢久 訳・黒木朋興 より。)

かくして Christian Vander はイタリア各地で、様々なバンドを渡り歩いて日銭を稼ぎ、
夜はホテルで深酒という1年半を過ごす。
1969年春の朝、トリノの友人の所に泊まっていた Christian は一つの啓示を受ける。
それは「Coltrane の仕事は未だ道半ばであり、誰かがそれをやり遂げなくてはならない。今度は私の番だ。」というメッセージであったという。
こうして Christian は何故かも分からずパリ行きの列車に飛び乗り、フランスへ帰った。
母親の元に戻った Christian は、それでも何をなすべきか分からず、2ヶ月ほど楽器にも触らない日々が続く。
だが事態は動き始めた。
Laurent Thibault, Zabu らと共にバンドで演奏しないかという申し出でが舞い込んで来た。
バラエティー歌手 Charlotte Leslie のバックとしてのオパール海岸(La Cote d'Opal - Le Touquet, Boulogne sur Mer などの都市があるフランス北西部海岸地方の名称)ツアーであった。
ラインアップは
Laurent Thibault : bass
Zabu : backing vocal
Christian Vander : drums
Francis Moze : keyboard
Jean-Jacques Ferry : guitar
Eric Goger : guitar
の6人。

Zorgones に関する補足

Laurent Thibault, Zabu(本名 Lucien Zabusuki)は1966〜1967年頃,、The Pives というバンドを組み Les Chinese とよくコンサートで同じステージを踏んでいる。
Christian にオパール海岸ツアーの申し出が来たのはこの頃の親交による。
Pives は1968年 Philips にデモテープを録音するにあたって名前を The Zorgones と改める。
当時のメンバーは
Laurent Thibault : bass
Zabu : vocal
Francis Moze : keyboard (Laurent の幼友達であった)
Geza Fenzl : drums (後に Dyanstie Crisis に加入)
Michel Marie : guitar
Philippe-Ferederic Angelloz : guitar
1968年6月、Zorgones は10日間スタジオにこもりアルバム用の曲を吹き込む。
しかし Trotsky, Robert Desnos, William Burroughs 等のテキストを引用した歌詞の内容が、
パリの5月革命後ようやく秩序を取り戻しつつある時期には刺激的すぎるという理由でアルバムは没。
シングルが1枚発売されたにとどまり、
(Zorgones / Herr Doktor Reich c/w Mon Velo est Bleu      Mercury   154.658)
失意の内に Zorgones は解散してしまう。

しかし、わずか2回のギグをこなしたところで、
演奏がやかましすぎて Charlotte の歌に合わない、と言われてくびにされる。
マネージャーの提案で、彼らは The Carnaby Street Swingers を名乗り、
イギリスから来たグループのふりをしてツアーを続けることにした。
当時の彼らのレパートリーは The Spirit の "Fresh Garbage" で幕を開け、
Pharoah Sanders の66年の作品 "Lower Egypt" の45分にも及ぶ拡大ヴァージョンへと続き、
後は観客が踊れるようにと R&B やロックのカヴァー曲を演るというものだったらしい。
Christian Vander の提案で、 Zabu は "Lower Egypt" のテーマを自作の言葉で即興的に歌い始める。
(このアイディア自体は別に目新しいものではなく、当時 Pharoa Sanders のグループでヴォーカルと打楽器を担当していた Leon Thomas が既に擬声語風に即興で "Upper & Lower Egypt" を歌っていた。)
このやり方が自分たちの音楽にピッタリくることを発見したメンバーは、
すぐに(カヴァー曲も含めて)他の曲にも同じアプローチをしてみる。
注目すべきはこの時期にオリジナル曲として "Kobaia" を演奏し始めたことであろう。
最初は英語で歌われていたこの曲にも同様の歌詞がつけられ、これがコバイア語の萌芽ととることができよう。
ここについに Magma の母体とも言える形が出来上がったのである。
Christian 言うところの「見事なまでに散々だった」このツアーを終えてパリへ戻ると
2人のギタリストが抜け、他の4人は新たなる出発のためにメンバー探しを始めた。
当時フランスの最先端の音楽基地として機能していた Rock'n Roll Circus へ足繁く通いながら、
また Mal Waldron, Chick Corea, Jack Dejohnette, Dave Holland, Grachan Mooncur 3世, Yochk'o Seffer など
数多くのミュージシャンとの共演を経験しながら
Christian Vander の周囲にはこれはと思うメンバーが集まり始めた。

Rene Garber : (実際にはオパール海岸ツアーの前に彼の在籍した Contrepoint の演奏を見て感動した Christian との親交は始まっていた。)
Paco Charlery : (始めはパーカッションで参加。後にトランペット担当。)
Francois Cahen : (ジャズピアニストであった彼は、クラブ Chat qui Peche での Christian, Mal Waldron, Jean-francois Catoire のトリオ演奏を見て協力を申し出る。)
Eddie Rabbin : (Francis Moze が兵役で一時脱退せざるを得なかった期間、代役で参加したアメリカ人ピアニスト。)
Guy Marco, Rene Morizur : (ブラス奏者)
Claude Engel : (Omega Plus のギタリスト)

等を迎え、いよいよ Magma の原型が出来上がるのが1969年秋のことであった。

なお、ちゃんと確認がとれていないので、あくまで推測としての話であるが、
Christian と Stella の出会いもこの頃ではないだろうか。
(1983年6月の Marseille のステージに当時13歳だった愛娘 Julie が上がって、"Otis"の前口上を行っていることから逆算すると1969年には出会っている筈である。)

「話では当時ジービウス (Gibus ?) っていうジャズマンやよたったミュージシャンなんかがたむろして、
夜ふけの3時4時まで過ごすクラブがあって、Stella と Christian もそこで知り合ったみたい。」
(直子 Paganotti の話 「Marquee vol.048」 より)

(続く)


Back to Magma index マグマページに戻る

Back to home  ホームページに戻る