バイオグラフィー Go to Biography
歴史 Go to Band History
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Aislinn
Quinn
vocals, keyboards, flute
カリフォルニア芸術専門学校出身。音楽理論及び作曲の修士号を持つ。
マルチメディア及び世界各国の音楽の研究及び演奏経験多し。
1987年 Absolute Zero に参加。
Enrique
Jardines
bass guitar
ブルックリン大学芸術学部出身。作曲の修士号を持つ。
多数のバンド、アンサンブル及びレコーディングの経験を積む。
Pip Pyle
drums
言わずと知れた英国カンタベリーシーンの名ドラマー。
Delivery を振り出しに Gong, Hatfield & the North, Nathinal Health,
Soft Heap, Rapid Eye Movement, In Cahoots, l'Equip Out
と参加したバンドは枚挙にいとまがない。
昨年発表された初ソロ "7 Year Itch" も好評。
Absolute Zero - A Band History
1975:
Paul Roger (前任のドラマー)はマサチューセッツ州でヒッチハイク中の
Enrique Jardines を拾う。
この時 Enrique は Paul に自分のバンドのオーディションを受けてみないかと誘った。
Paul はオーディションを受け、自宅で結果を待つことになる。
バンドは文句無しで Paul をバンドに迎え入れることを決定。
しかし Enrique が Paul の電話番号の控えを失くしてしまったためにその決定を伝えることができない。
バンドはドラム無しのまま、やがて解散。
Enrique は急ぎフロリダ州に引っ越すことになり、その道中健康スナックを買いに店に立ち寄る。
神の悪戯か、その店の駐車場に Paul も入ってきたのである。
驚きながらも二人は互いの住所を交換し、互いに連絡を取り合う約束をし、何があってもいつか一緒にバンドを組もうと誓い合った。
1979:
Enrique は
Paul にフロリダ州ゲインズビル
Gainesville でのある音楽の企画に参加を要請。
この時二人は Absolute Zero の結成を決意する。
ギタリスト Michael Moehle が加わりリハーサル開始。
フロリダ大学に於いて初のコンサート。
フロリダ州マイアミ Miami にて処女レコーディング。
フロリダ州セントピーターズバーグ St. Petersburg 出身のトランペッター
Keith Hedger と出会い、
両者はジャムセッションを行う。(Keith の唇が腫れ上がるほど激しいものだった。)
1980:
Michael は Absolute Zero を離れ、イリノイ州シカゴへ。
Enrique と
Paul はマサチューセッツ州レオミンスター
Leominster へ移り、グループの構想を練り直す。
1981:
とにかく数多くのリハーサルとオーディション。
ニューヨーク市のコンサートは Absolute Zero がステージに上がる数分前にキャンセルされた。
原因は近くの Inroads Theater で起こった暴動のため。
オープニングアクトに出演予定のミュージシャンが彼の前の出し物の上演中に舞台に上がって
「こいつらは割り当て時間をオーバーしている。」と騒ぎ出した。
会場のガードマンと観衆は怒り、大混乱が起こった。
1982:
マサチューセッツ州メドフォード Medford のタフツ Tufts 大学におけるライブを
地元ラジオ局 WMFO 91.5 がラジオ中継。これが Absolute Zero のラジオ初登場。
このライブには前述のトランペッター Keith Hedger が参加。
1983:
Keith Hedger を加えた形で初レコーディング。
1984:
数多くのミュージシャンが水のように Absolute Zero を出たり入ったりする。
1986:
Keith Hedger が正式に Absolute
Zero に参加。
ヴォーカリストを求めてオーディション開始。
1987:
作曲家でキーポードとヴォーカルをこなす Aislinn Quinn が共通の友人からオーディションのことを聞きつけ、
ニューヨークからレオミンスターへやって来る。
(400Wのアンプと炸裂するドラムを向こうに回して、マイク無しで歌うことになる。)
軽い気持ちでオーディションを受けに来た彼女だが、
真剣そのものの他のメンバー達に心理的拷問を加えられた後
白刃の上を歩くごとき試練を経て、バンドに迎えられる。
新ラインナップによるリハーサル開始。
1988:
Aislinn マサチューセッツ州へ引っ越す。
Keith は新たな音楽を求めて旅発つ。
1989:
ライブ及びレコーディング用に大量の曲作り。
(およそ現在のスタイルが出来上がる。)
1990:
リハーサル中機材の出火のため、金銭的にピンチに陥る。
当時の Enrique の言葉、
「ベースを弾いていたらスピーカから煙が吹き出した。
自分の弾いているのがスモーキング・ベースだとは知らなかった。」
1991:
これまでの曲を見直すと共に、新曲をレパートリーに加える。
1992:
最初のCDミニアルバム "A Live in the Bsasement" を録音する。
エンジニアもたてず家庭用Hi-Fiビデオデッキを使った一発録り。
金銭及び録音機材不足を補うための Paul
のこのアイディアにより
ラジオ放送に耐えうる音質での録音が可能になった。
Paul の家の地下室でのライブ(CDのタイトルはここから来ている。)、ミックス・オーヴァーダビング一切なし。
Absolute Zero の3人はCDのマスタリングのためスタジオへ行く。
スタジオのエンジニアはこのVHSテープを聴くやいなや
「誰がエンジニアをしたのか?」「残りのメンバーはいつやって来るのか?」
と尋ねた。
CDは12月にリリースされた。
1993:
Absolute Zero のCDはニューイングランド州のラジオ局に於いて少なくとも25回放送される。
ニューイングランドのプレイヤー向け雑誌 New
England Performer Magazine で、今月の一枚として取り上げられる。
その後も多数の好意的レビューとラジオインタビューが続く。
1994:
ボストンの現代芸術専門学校にてコンサート、Absolute Zero 新ラインアップと新曲のお披露目。
続いてローズアイランド州プロヴィデンス Providence で開催されたフェスティバルに参加。
プロモーターは Worcester Artists Group
と無類の Bob Jordan。
Absolute Zero の出演シーンの1部はビデオに収められる。
春の終わり頃 Absolute Zero の今後を占う上で重要な転換期が訪れる。
個人的な状況の変化に伴い Absolute
Zero は本拠地の移動を決意。
まず Aislinn と Enrique がフロリダへ移り、将来の Absolute Zero 基地の建設に取りかかる。
1995:
Paul
はマサチューセッツの店を閉め、マイアミ Miami
への移転を完了する。
1996:
マイアミ WLRN 91.3 が
Absolute Zero の音楽を放送し始める。
1997:
セカンドアルバム "Crashing Icons"およびサードアルバム
をライブ録音するも、
機材の関係でオーヴァーダビングとミックスダウンが出来ないままになる。
4枚目のための作曲開始。
フランス、リール Lille のラジオ番組 Sleepless (主催:Jeremy Huylebroeck)
で "A Live in the
Bsasement" がフランスに初紹介される。
オランダのインターネットマガジン CDelight (主催:Henri Bos)で Absolute Zero のレビューが
初めてインターネット上に登場。
また Jason
Ellerbee 主催のインターネットラジオ番組 Dreams Wide Awake で Absolute Zero の音楽が流れる。
1998:
Absolute Zero 自身による公式ホームページ開設。
Alberto Nucci のインターネットマガジン Arlequins と
Radio Siena2 のラジオ番組 Cogito ergo...rock にてイタリア初登場。
Scott Hamrick のインターネットマガジン Reels of Dreams Unrolled で
アメリカ合衆国内インターネット初の "A Live in the Bsasement" レビュー。
登美隆之主催の雑誌 Rotter's Paper にて "A Live in the Bsasement" 日本初レビュー。
1999:
Absolute Zero のオリジナルメンバーで結成以来のドラマー Paul Roger が脱退。
後任として Pip Pyle が参加。リハーサル開始。