1061年3月21日

悲しみを紛らわそうと、街角に立ち、花を売る。
しかし、一日立っていても、篭の中の花が一つとして減ることはなかった。いつもここで花を買ってくれるまだ5つくらいの小さな男の子も、怖いものを見るような目で、そそくさと立ち去ってしまう。

何故だろう、と思った。世の中の全てが、私を見放してしまったのだろうか。
しかし、自宅に帰り、鏡を見て、愕然とした。
顔が、笑っていない。
まるで、誰かに顔を押さえられているかの様に、石膏を流して作られたデス・マスクの様に、表情が無い。これが、本当に、私の顔なのだろうか。
唯一、私の自慢だった笑顔。少なくとも私の花を買って頂いた方にとっては、多少なりとも心の支えになっていたのかも知れない、この笑顔。親を失い、大切な何かを失った今、私の全財産である笑顔。 それを失ってしまった。
私を見放したのは、他でもない、私自身だった。

アーよ、私はマーテルの僕として、失格です。人に笑顔をもたらすことが出来ぬ祭司に、祭司たる資格はありません。
自ら卵の殻を破る事を放棄してしまった雛鳥のような自分を、どうか笑ってください。見捨ててください。
いっそのこと、彼のあの剣で、私の身も心も引き裂いて下さったら、どれ程の安楽であったことでしょう。
私の名前、幸せの花……そんな事、一体、誰が言ったのだろう。フィリーネという名前……いや、私という存在が私自身であることすら、確かでないのに。
きっと、誰も私の存在を必要としていないのでしょう。彼が必要としていたのが“ノーマ”という女性であった様に、皆は私などではなく……私の中に居る誰かを必要としているのです。
だけど私は、追い付く事は出来ません。私の魂の中に存在する、偉大な人物に。
自分の中に、越えることの出来ない壁を感じます。決して越えることの出来ない、越えることの許されない、垂直な、天までそそり立つ壁……。
乗り越える力、私にはありません。
私は、弱い人間です。
存在する価値の無い人間です。
彼が言った通り、私はもう、“死んでしまっている”のです。
ならば、躊躇うことは無いでしょう。
いつ、私の体が朽ち果てても、誰一人悲しむことは無いでしょう。
そう考えると、気持ちが少し楽になりました。
決心はつきました。
この愚かな祭司を、アーよ、マーテルよ、お許し給うな!

……でも、その前に……しておかなければならない事がある。
彼を、追う。
私という存在が無くなってしまう前に、私の真実について、少しでも、知っておきたい。
例え、全てが徒労に終わってしまうと分かっていても。
ヘレナ様、私の我侭を、どうかお許しください。
私は、旅に出ます。長い、旅に。
彼を、導く。
その日まで、私は生きてみようと思う。