ねぎ屋 三代記
話しは古くなりますが、初代・季三郎(すえさぶろう)が昭和の始めに何を思ったのか・・・・・
「下仁田ねぎ」の美味しいのに目を付けて、今でこそ珍しくはありませんが、
直接お客様に売ろうと思い立ち 奇抜なアイデアを思い立ち実行したのです。

何と! 群馬の玄関口高崎駅前に一軒家を借りて そこで12月の一ヶ月間 
店を出したのです。 そして商売を始めました。
高崎駅から帰る お客様を捕まえては下仁田ねぎを売ったのです。
他にも持ち前の営業力で近くの専売公社や市役所に出掛けて売り込みをいたしました。(
祖父・季三郎はどう見ても百姓では無く 完全な商売人だったのです。)

その当時は直接農家が物を売りに行く と言うのは無かったので珍しがられて結構、商売に成ったそうです。 
でも 太平洋戦争が激しくなって来たので それどころではなくなり中断をしてしまいました。

その後 
二代目・信夫が約35年程前、内山峠が開通して信州への道が
開通しまして にわかに家の前の国道254線を自動車がひっきりなしに
通るようになりました。

これを捨てておく手はナイ! と考えて早速、店頭で直売を始めました。

イヤイヤ〜 これまた〜 予想外でした!
売れるとは思ってもいませんでしたが・・・・
(今にしてみれば 大した事は無いのですが・・・・・)
ホントに予想外にも? 皆様方の支持を頂き盛況を博しました。
この当時は さすがの
「下仁田ねぎ」でも お歳暮時期に いつものお客様に
注文を受けて荷造り出荷するだけだと思っていました。
当時は
 「下仁田ねぎ」が欲しくても どこにも売っていなくて買えなかったのです。近代になっても 昔ながらの受け身の商売だったのです。

昭和50年代の景気の上り坂で お歳暮・需要があっても 
それを賄う供給システムが出来ていなかったのです。
そこに目を付けた 
二代目・信夫さん 偉い!

初代・2代と言い 時代の先を見通す力が有ったのです。
それに比べますと 私(三代目・則之)は ダメです。
何の思い付きも・考えも浮かびません。
ただ、畑に出て ねぎ作りしか出来ません。
他には何の取り柄もございません。

やはり、三代目は ダメなのでしょうか?
能なしの三代目です。
でも 
「下仁田ねぎ」 だけは 良い物を作る自信が有ります。
売ることも肝要ですが、やはり基本は
 「良い下仁田ねぎ」を作るとことだと思っています。


私はまだ若いです。 まだ先は長いです。
当分、ねぎ作りは出来ます。
皆様方には どうか、末永く面倒を見て下さいますこと、お願い申し上げます。


最後に、三代目もこの位はしないと思いまして、このホームページを
立ち上げました。
立派?ではございませんが、皆様、覗って行って下さいませ



           三代目 則之より



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