デボーションプログラム


・列王記

<・列王記1章>
『アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ。」といった。』
                         (8節)
 神の人の立場は、神の召命による。神が特別に選び、ご自分のご用に
用いるために立たせて下さる。そして、神はいつ、どんな場所においても用いようとされる時に、神のメッセージを携えて語る。それはたとえどんなに過酷な死の宣告でも、明白に語るべきである。今日、福音を語るのに、水増ししたり、会衆の気にいるメッセージのみを語る時代でもあるが、神の預言者はありのままのさばきを語るのです。我々も神のみことばにあいまいな態度で告白を続けるのはやめ、大胆にいつものように今も信じた通りに告白するものとなろう。預言者はどんな人物かとたずねると、すぐに、「それはティシュベ人エリヤだ。」と王みずから語るように、我らの人生が神の人を証する器とされたいのです。神の人の召命はまた、人からの証が加えられることも事実である。
<祈り>主よ。あなたのしもべであることをいつも証しさせてください。


<・列王記2章>
『…求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つ
の分け前が私のものになりますように。」と言った。』
                           (9節)
 この世への野心家は沢山いるように、信仰の世界での清められた野心、大志を抱く者が現れなくてはならない。「わがめぐみ汝に足れり。」という告白も大切である。しかし、神はさらに大いなる恵みを賜う。へりくだる者になれ、とすすめている。エリシャは、エリヤにスッポンのにように食いついて離さない。ギルガル(1節)から、ベテルヘ(2節)、エリコへ(4節)、ヨルダンへ(6節)と固執するように神の祝福を求めている。このような霊的渇望こそ、よりよき者へのステップになってゆくと思う。この真のきよめ、聖霊のみたし、恵まれることを求めないとするならば、まもなく我らの求めが人間的な求めに堕してしまうことであろう。神に大事を求めよう。求めの切なるによって答えた悪しき裁判官のように、執拗な熱心な祈りに、神様は渇いておられる。先生であるエリヤ、偉大なイスラエルの父、イスラエルの戦車と騎兵に匹敵するエリヤ、この師の2倍の霊を求めたエリシャは、おとなしい反面、激しい内なるものを秘めていることを気付く。
<祈り>主よ。偉大な神の人の二倍の霊を与えてください。

<・列王記3章> 
『主はこう仰せられる。「この谷にみぞを掘れ、みぞを掘れ。」』
                           (16節)
 人生は常に新しい問題と祈りに向かわされる。その都度、へりくだって神の導きを求めることを忘れたなら、必ず大きな困難と主を傷つける結果になることを学んでおきたい。さて、イスラエルの王に新たな問題が出てきた。モアブの謀反を片付けなくてはならない。そこで、預言者エリヤが神の声を語る。それは、谷にみぞを掘れと二度も語られていることです。みぞの大きなものが谷と言えるでしょうが、そこにあえてみぞを掘って水を流すようにして、何の利益がありましょうか。平地にみぞを掘るなら理解できますが。現代は、合理主義が教育され、何でも合理的に考えて、行動しようとする。しかし、この現代でも、神の約束を信じて自分の心に謙遜な谷に、さらに自己を砕くみぞを掘るという服従をするなら、神は水を満たし、敵を撹乱させ、奇跡を行われる。旧約の物語の中に、新約の大きな霊的な真理が含まれている。
<祈り>主よ。心のみぞをもっと深い溝を掘り下げ、恵みを通す器に。

『恐れるな。私たちと共にいるものは、彼らと共にいる者よりも多いの
 だから。』             <第・列王記6章16節>
     
<・列王記4章>
『そのすべての器に油を注ぎなさい。』          (4節)

 神は神の人エリヤを用いて、油をみたす奇蹟を行なわれた。こういう奇蹟はむやみに行なわれるものではなく、神に仕えた預言者の死により、その家族への配慮として与えられたのである。神様を第一とした生涯は、その死後でさえ、忘れられずに神が十分な備えを与えたもうのです。神に従う生涯に、強い確信と喜びをもって歩まれますようにと祈ります。持ってきた空の器に油が尽きないのは、いくつかの教訓があろう。

第一に、どんな器でも、さし出せばみたされること。私たちがどんなに小さな器でも、神にさし出せば精霊でみたされる。
第二に、みたされるためには、空の器にならなくてはいけない。この世のことや自我が心をみたしていてはみたされることが決してできない。
第三に、わずかの油の入ったつぼを注げば注ぐほど、増し与えられ、次々に器をみたすことができる。
 

私たちの信仰の油も、わずかに見えて無限の霊的祝福を与えるものを
持っている。ただ、油を注ぐことを忘れてないだろうか。
<祈り>主よ。この小さな私の生涯に、あなたの油を注いで下さい。


<・列王記5章>
『神の人エリシャは、「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」』(8節)神に用いられる人とはどんなタイプの人でしょうか。エリシャは強い確信を持った人でした。世の権力者、富者におもねる弱い男でなく、王や富者をも恐れない信仰の人でした。スリヤの将軍ナアマンにらい病がいやされる方法を単純に示しました。難病をいやすのに、もったいぶった儀式(11節)や、好みの方法でなく(12節)、単純に、みことばに従うことを示したのです。彼は裸になり、七度ヨルダン川に沈み、みことばに従った時、きよめられます。福音を伝える神の人も、単純にイエス・キリストの血汐による清めを語るものでありたい。
 いやされたナアマンは、沢山の礼を届けるが、神の人エリシャは固辞して受けない。この清廉な生き方こそ、神の人にふさわしい。確信にみち、人を恐れず、物質にも目もくれず、神に従う人です。Iテモテ3章には、神の人の生き方が記されています。読んでください。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなた方をどうして信じることができますか。」(ヨハネ福音書5章44節)
<祈り>神の言葉を語る人を尊敬し、自分も神の言葉に歩めますよう。

<・列王記6章> 
『恐れるな。私たちとともにいるものは、彼らとともにいる者より多い
のだから。』                      (16節)
 私たちは目に見える恐ればかりでなく、様々な心配がある。それはある意味で自分の力でどうにもならない無力感や焦燥感からくるものです。エリシャを囲む大軍を前に召使は恐れて声もなく立ちすくむ。しかし、エリシャは生きた神の臨在の中に、神の護衛を確信していた。詩篇34篇7節には、「主の使いは主を恐れるものの回りに陣を張り、彼らを助け出される。」と約束されています。
 第一ヨハネ4章4節には、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちおられる方が、この世のうちにいる、あのものよりも力があるからです。」とある。エリシャは祈る。若者の目を開きたまえと。主よ。私たちの目を開き、私たちの中に、私たちの周囲に営をつらねて、昼は雲、夜は火の柱をもって守られる神の守りを見せたまえ。エリシャは祈っている中に、神を体験していることを知る時、私たちも励んで祈りたい。
<祈り>主よ。きょうもふさわしい重荷を与えてくださり感謝します。しかも、あなたが一緒にいてくださることを感謝します。


<・列王記7章>
『私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なの
 に、私たちはためらっている。』            (9節)

 4人のらい病人の心が福音宣教をする者へのすばらしい模範を残してくれる。彼らは自分の立っている所にいるだけでは死んでしまう。いっそのこと、アラムの陣営へ行こうと決心する。もし殺されるなら、そのときは死ぬまでのことだし(4節)とは、らい病人の苦しみを示す。
 らい病になぞらえる罪も、私たちが罪を持ち、きよめられていない時は、このらい病人のようにゆき詰まりの中に日毎に生活していることになる。罪の払う価が死の報酬だからです。
 彼らが出てみると、敵の逃げ去った跡しかみられない。そこで、自分のために食料をたくわえるが、それが間違っていることに気付く。
 今日、多くのキリスト者が、悩みをキリストに解決してもらった後、やはり、自分を守るために一生懸命にたくわえている姿を見る。
 今日という一日は、神様の大きな恵みに生かされていることをあかしする一日として、良い知らせを伝える歩みを始めよう。キリストの愛にこたえる歩みに前進しよう。
<祈り>主よ。救われた生涯なのに、さらに自分を豊かにしようとする愚かさに気付かせてください。

<・列王記8章>
『彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。
アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪を行なっ
たが、』                      (18節)
 家庭は人生の基礎である。子供はこの家庭という苗床から成長する。両親が信仰ある敬虔な、神を第一としたホームから、ほとんど社会を毒する子供は出ない。離婚する夫婦の比率は、毎日家庭礼拝を守るクリス
チャンホームの場合は普通の1/100 以下であると報告されている。アハブは異邦の魅力的な偶像教徒イゼベルによって、害毒がイスラエル王国に広まり、隣国のユダ王国にも彼らの娘が結婚して悪に傾いてしまう。結婚は、大切な家庭を美しくもし、汚れたものにもしてしまう。
 そして、その子々孫々に至るまで、悪の系図は引きつがれることを思う時、家庭を守ることがいかに大切なことか知ることができる。父親は仕事ばかり、母親は教育ママでは良い家庭、将来を担う信仰の子供が育つような子孫の繁栄はおぼつかなくなります。家庭を聖く、キリストの恵みに満ちるように祈る責任があります。
<祈り>主よ。神さまを第一とする家庭として下さい。 


<・列王記9章>
『これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことば
 のとおりだ。』                  (36節)
 『これは、主が……語られたことばのとおりだ。』と、神のことばの成就がこれ程鮮やかに示されたのを見る時、私たちの信仰が問われてくるように思うのです。
 神は聖書の中に完全な啓示を人間に与えて、預言の成就をはっきりと示している。この神のことばに対し、私たちの信仰は、あいまいな態度をとり続けることは許されない。主の言葉に従うか、否かのどちらかである。聖書の学びは、そのまま今日の私たちの生き方へと迫ります。
 神のことばは生きていて、力あり、両刃の剣のように鋭く、精神を、霊性を見分けてゆく。どんなに今見える所では、神のことばを無視できるように見えても、神の言葉のさばきが必ず実現するのです。
 悪婦イゼベルは、自分勝手にやりたい放題をしてきた。しかし、彼女の心はエリヤのイゼベルへの預言によって苦しんだに違いない。
 幸福は外面では測れない。ついに神のしもべの言葉がその通りに成就する時、周囲も、王も、神の人のことばに頭を下げたのです。
<祈り>主よ。あなたの言葉を成就する言葉として、さらに裁きの言葉として、信じる、明け渡す、期待する、恐れる者にして下さい。

<・列王記10章> 
『しかし、エフーは、…主の律法に歩もうと心がけず、…その頃、主は
イスラエルを少しずつ削り始めておられた。』           
                       (31〜32節)
 エフーは、実に熱心な男であった。16節に「私の主に対する熱心さを見なさい。」とあるが、目を見張るばかりである。
 けれども、熱心さが本当の熱心さでなく、肉的な、わがままな熱心さであったことがわかる。たいてい、恵まれていない人、肉的な人というものは、自分の熱心さを見せたがり、自分の熱心を誇るものです。
 たしかにエフーは、ある点ではみこころにかなうことを行なったといえる。しかし、大切な点で主の律法に歩もうとしないのです。自分本位の、わがままな服従といえる。
 人間は人の前に熱心でありつつ、なおさばきを受けることがある。全部の思いをキリストに明け渡した服従、大事でなく小事でも委ねた服従こそ、神が求められる信仰者である。きよめられる迄のクリスチャンの姿ではないだろうか。
<祈り>主よ。あなたの前には、裸同然です。いつわりの熱心や、人に見せるための偽善から解放してください。

<・列王記11章>
『しかし、ヨラムの娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、殺される王
の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、…隠した。』
                           (2節)
 迫害の中にも、神の慰めを与える人物がいることは幸いである。
 アタルヤは、善王ヨシャパテのもとに嫁したイゼベルとアハブの娘です。アタルヤの悪は、イスラエル王家とユダの国の大きな災禍となり、人間による荒廃に及んだのです。たった一人の悪も、その背後にある社会的原因を無視できない。
 しかし、ここに、どんな社会的困難をも恐れずに、戦う夫婦がいる。それは、エホヤダとエホシェバの王族の祭司夫婦です。国家を憂い、将来のために、ヨアシュを危機のために助け出し、それから丸7年間、隠すことと共に、アルタヤの悪政にも沈黙してすごします。
 二人は一人に勝る。神のみこころを求める夫婦は、何と幸いであろう。彼等の献身的奉仕が、滅亡寸前のユダを宗教改革に導き、危機から一時守られます。バアルの偶像は倒され、一応一掃されます。
 神に仕える夫婦は、この世の反対、苦しみに共に戦う特権があります。
<祈り>主よ。どんな自分の置かれている状況が困難でも、この夫婦のような強い信仰、祈りの中の忍耐をお与えください。アーメン


<・列王記12章>
『ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなう
ことを行なった。』
                          (2節)
 クリスチャンの影響力を考えてみよう。今日の日本の政治や宗教、経済、道徳への影響力はわずかであることに戦慄を覚える。なぜなら、キリスト教の光が届かない所に、不正、不道徳、もうけすぎ、堕落が必ずあるからです。
 一祭司エホヤダが、霊的な指導を王と国家になすことのできたような時代は日本に来ないのであろうか。神はいつの時代にも、献げきった器を用いて、国家の衰退を食い止める働きをしてきた。あの沈みかけた大英帝国に再び栄光をあらしめたのは、ジョン・ウェスレーたちのメソジスト運動であった。彼らが国家の道徳となり、英国労働党を生み、あらゆる点にまで、ことに道徳的覚醒は著しいものであった。
 しかし残念なことに、ヨアシュは、エホヤダが去った後はマイペースで、ついに悲惨な死に終わる。
 我らは旧約を鏡とし、前輪の轍を踏むことなきよう学びたい。
<祈り>主よ。まず、私が主の前に徹する信仰生活を歩ませてください。そして、周囲へのあたたかな、正しい霊性を及ぼせますように。

<・列王記13章> 
『「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、
それでやめた。』                 (18節)
 昔から今日まで、成功を収めた人物はみな努力家であるとともに、みな熱心な人たちだ。だから、天才は努力の賜物だといわれるほどだ。
 預言者エリヤの最後の預言の奉仕に、ヨアシュへの祝福の預言をする。矢を取って打てといわれた時、意味がわからなかった。しかし、わからずとも熱心な人は預言者のことばに多くのしぐさで応じられたろう。
 彼はある意味で常識の人物だった。もし矢でたたくことが戦いの勝利を意味すると始めから言ってくれればそのようにしたのにと、現代の人は考えるだろう。しかし、神は常にそのわけを示さず、その人の熱心さ、まごごろ、熱誠をためされる。
 日々の私たちの歩みは、神の前にその同じ試しがあることを考えよう。小事に忠実なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠実な者は大事にも不忠なりです。主の前に、人間的な計算を越えて、熱心な生き方を絶えず励むことができますようにと祈りましょう。
<祈り>主よ。いつも計算づくの信仰であったり、常識的な生き方によって歩むのでなく、主のみこころに生きられますように。


<・列王記14章>
『彼は主の目にかなうことを行なったが、彼の父祖、ダビデのようにで
はなく、すべて父ヨアシュが行なったとおりを行なった。』
                          (3節)
 アマツヤは悪王ではなかったが、さりとて善に熱心でもなかった。父ヨアシュは、祭司エホヤダがいたときは敬虔だった男です。積極的に神に従うことをせずに、自分の父親程度の信仰をしていればそれで良いだろう、と。そして、その結末は父のように殺されている。可もない、不可もない消極的な信仰は消極的な結果であり、最悪の死を招く。
 彼は父祖ダビデのように積極的な信仰で取り組むべきだったし、服従すべきだったのです。
 黙示録3章15〜16節「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私の口からあなたを吐き出そう。」と、主イエスさまは激しく求めておられる。
 神が私たちに聖霊を与えて、力強く押し出してくださるように祈り、期待するのです。
<祈り>主よ。信仰による生き方を軽んじていた先輩たちにならうのでなく、信仰的に生きた人々を模範とさせてください。

 

<・列王記15章>
『主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までらい病に冒され、隔離された
家に住んだ。』                (5節)
 アザルヤ(ウジヤ王のこと)は52年間治めた、良い王の一人で、神中心に行なっていた国王でした。しかし、残念なことに、晩年に高ぶり、神にうたれたのです。
 人間にとって最も大きな敵は外ではなく、心の中に宿る高慢である。人間はことに祝福された時に誇るのです。彼は有終の美を飾ることができず、子どものヨタムが摂政として国を治めるのです。
 はじめは謙遜で、神と人に仕える人も、わずかな成功に、たちまち正体を暴露してしまう人がいる。聖書はよくよく高ぶりに警告をしている。「高ぶりは滅びに先立つ」のです。ミカ書にも、神とともにへりくだって歩むことこそ、神が一番求められている魂です。
 パウロはその晩年においても、使徒として高ぶらず、「われ、わが走るべき道のりを終え、…栄光の冠が待つ。」と最後まで完走したのです。凡人の私たちも、よく注意しないとすぐに陥る病気である。
<祈り>主よ。高慢にふるまう自分の罪に気付かせてください。罪のさばきのしるしを背負いつつ生きるのでなく、恵みのしるしに生きられるよう。   


<・列王記16章>

『彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の
出入り口も、アッシリヤの王のために主の宮から取り除いた。』
                         (18節)
 私たちは仙人ではなく、この世にあって生きている。キリストも、この世を去るに際し、『彼らをこの世から取り去ることではなく、守ってくださることです』と祈られた。多くのキリスト者、ことに世的なキリスト者は、この世との妥協点をどこに置くのかに迷うのです。
 試練の時、王は異邦人に助けを求め、宮の中の宝物をもって礼とした。彼等はもはや、主に対する自分たちの信仰で守り、進むのでなく、この世の力を用いて自分を守ろうとしています。このために、10節からの礼拝そのものまで異邦的になってくる。その結果、18節のように、<安息日のための備え>もあったものではなくなる。
 若いキリスト者よ、世のものに心をとらわれてはならない。礼拝を守り、神に奉仕することを第一にせよ。世との妥協点は霊的生命を奪い、後々に禍根を残すことになる。神殿は本当の用を失ったのです。
<祈り>主よ。自分の繁栄と欲望を遂げるためのどんなことでもしようとする、みにくい罪をきよめて下さい。

<・列王記17章> 
『イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそ
かに行ない、…』
                            (9節)
 罪は公然と行なうのではなく、秘密の中に行なおうとする。罪は人間が神をしめ出してしまうところからはじまる。しかし、神をしめ出す者は、神からしめ出される。彼らがひそかに行なうということは、きわめてぼうとく的行為である。
 私たちは、お互いの生活における交わりも、生きた神に対する態度いかんなのです。私たちは光の中を歩くなら、互いに交わりを持つと、ヨハネは教えた。ダビデも罪を犯した時、神との間におおいができた。
 決してひそかにできぬ神に対し、人間はこれをおおいに隠そうとする。こんな人間に対して、神は大いなる忍耐をもっておられる。しかし、神は常に警告を与えて、光の中を歩むように警戒を与えておられる。
 今日においても、ヨハネのすすめのように、光の中を歩むよう、ひそかに行なわず、光の中に持ち出し、ゆるしを求めるべきなのです。(Iヨハネ1;7〜9)
<祈り>主よ。あなたに対する罪を犯し、ひそかに隠そうといたします。いつも光の中を歩む、光の子どもにしてください。
 

<・列王記18章>
『彼はイスラエルの神、主に信頼していた。』
                           (5節)
 ヒゼキヤはまれにみる信仰深い王であった。彼は、父祖ダビデに近い霊的な人物である。国家にとって、敬虔なクリスチャンが支配することは、大きな希望であり、力である。
 自分の信仰が、時々本物になっているかどうか疑うことがある。いや、時々神は試される。それは試練を通してです。私たち現代のクリスチャンは、自分は信仰があると思いながらも、頭のこやしだけで、内的な強い確信にまで至っていないことが多い。だから、試練は我々を試すよい機会である。神は倒すためでなく、我々を益するため、内に持った信仰を本物にするために、悲しみや無理解、苦しみを与えて信仰を引き出して下さるのです。
 5節にも、ヒゼキヤは主に信頼していたといわれていることが、本章後半において、猛烈なゆさぶりをかけられ、信仰が問われてくる。
 今、あなたにとって、信仰が生きていますか。また、試練にあっている最中の兄姉よ、この試練の時を正しく生かせて、用いることができるように祈りましょう。
<祈り>主よ。試みを通過した信仰へと訓練してください。

6月25日(火) <・列王記19章>
『ヒゼキヤは主の前で祈って言った。』
                          (15節)
 聖書学校にいた頃、市川先生は「諸君の伝道や祈りは、まるで伝道ごっこ、お祈りごっこのようだ。」といわれたことがある。人が責任を負わずにすることの多くが、ごっこ遊びのように流れやすい。
 しかし、いざ祈らなくてはならないと言う重大な時期に直面することがある。こうした時こそ、祈りが磨かれるし、本物になるのです。
 彼の祈りは、第一に、今、現に臨在されるお方を信じ、神が見、聞いていただき、神の感情に訴えるように祈っている。
 第二に、彼はその苦しみをありのまま訴え、過去になした敵の事実に直面し、将来への不安のかげりも神に訴える。
 第三に、具体的な祈りへの希求を、神のみ名のあがめられることを願って祈りを閉じている。
 我らは、時にこの祈りを模範にしたい。この祈りが奇蹟をもって答えられ、預言は次々と成就していきます。この歴史に残る事実をもって、神は我らに何を語ろうとしておられるのだろうか。
<祈り>主よ、あなたの前に、見られ、聞かれ、心を動かしていただけるように、祈りの祭壇を築かせてください。

<・列王記20章> 
『そのころ、バビロンの王は、…使者を遣わし、…』
                         (12節)
 ヒゼキヤに死の宣告が下ったが、彼は非常に泣いて、熱心に祈ったため、神からの答えが来て、15年寿命がのばされた。また、このため、日の影が10度戻る奇蹟も与えて下さった。このことは、ヒゼキヤにすばらしいよろこびを満たした。
 しかし、人生は皮肉である。このよろこびの直後に、恵まれた後に、大失敗をしてしまうのです。彼の病気見舞いに来たバビロン王国は、当時、ごく小さな国だったが、アッスリヤを押さえ込む政策でユダと手を結んだのです。そこで、見舞いに来た客に、国にある宝物を全部見せたのです。彼は純粋な男だが、少し軽率なところがあった。宝物はダビデ以来の貯えられた豊かなものでした。
 やがて、その時の王は攻撃に来ないのだが、彼の後の王がエルサレムを攻撃し、ユダを陥落させ、バビロン捕囚へと展開していくことを思うとき、恵まれた後の軽率な失敗が、後々の子孫に大きな禍根を残したのです。私たちもよく陥りやすい点であります。
<祈り>主よ。いつも祈り、信仰によって行動する賢い者にして下さい。

<・列王記21章>

『マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。』
                          (1節)
 ヒゼキヤは善王だったが、彼の子マナセは最悪の王であった。恐らく、マナセはヒゼキヤ時代の反対勢力とくみして、自分の王位を保ったのであろう。彼は五十五年という長い間王として支配した。普通、長い間王となるのは国家にとって良いことなのだが、はたして、彼が長い間、王として治めることがよかったのでしょうか。
 彼の影響は、長い治世だっただけ、よりわざわいを残したと言えます。偶像に仕えるこの王ゆえに、神はこれ以上忍耐ができず、神の民を捕囚にし、より純粋な神を愛する民が、よりわけられてくるのです。マナセは多くの義人を殺し、あの有名な預言者イザヤが殉教させられたのもこの頃といわれる。
 しかしついに、マナセが捕らえられた時に、悔い改め、再びエルサレムの王に帰った時、偶像を整理し、神に仕えたのです。老人になって目覚めたマナセは残念といえるが、しかし、それでも幸いである。今日、多くのマナセのような人が悔い改めるのを待たれるのは神であります。
<祈り>主よ。今を神と人に熱心に生きられますように。私の生涯が、人々に少しでも霊的な感化を与え、祝福を残せる者にして下さい。

<・列王記22章>
『彼は主の目にかなうことを行なって、先祖タビデのすべての道に歩み、
右にも左にもそれなかった。』
                         (2節)
 マナセは父ヒゼキヤに信仰的に育てられたわけだが、悪王になり、ヨシヤは不信仰の父アンモンに育てられて偶像礼拝の中で、決定的な正義のクリスチャンになった。
 私たちの生活の中で、公的な生活と私的な生活をずらしてはないでしょうか。敬虔な両親の子供は、両親が公の席ではりっぱなのに、家庭に入ると、ふしだらだったら子供はどう思うでしょうか。
 マナセは若くして世を去った父の教育を受けられなかったかも知れません。人は若い時は、何でも理屈をつけてみたがるものです。しかし、その考えが途中でつくり変えられていくのが大人といえます。マナセは残念ながら変えられていくのが遅すぎたのです。
 一方、ヨシヤは父の悪を見て、決してこうなるまいと決心したろう。よく世間で、酒乱の父をもった子は、決して酒をのまなくなるようにです。我々はそれぞれ父を持っている。心から尊敬し、父を人格者と認められる目を持ちたい。
<祈り>主よ。置かれた家庭で、あなたからの訓練を受け取れますよう。

・列王記23章
(21節)『王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、…」』                      
 ヨシヤ王の大宗教改革である。彼は、汚れた偶像崇拝のものすべてを徹底的に大掃除をし、神に仕えます。そこには祭司も、祭壇も、建物も、森もみなはっきりと精算されます。反対勢力も数限りなくあったでしょう。しかし、彼は断固として神の計画を実行します。
 何故できたのでしょうか。その根本は契約の書、即ち聖書があったからです。聖書が今まで隠され、忘れられている状態でしたから、民は偶像に仕えたのです。この素晴らしい宗教改革を今も、継続して行うのが、きょうの決心です。
 昔も今も、聖書に立ち返ることから、信仰復興、リバイバル、宗教改革が始まるのです。
16世紀の宗教改革も聖書にかえり、今私たちの生活も、聖書にかえるところから信仰に生命が戻ります。
  ”Back to The Bible.”
<祈り>主よ。契約の書、聖書を正しい位置に置きます。常に聖書によって、歩みを決定し、聖書の指導を待つ者にしてください。

・列王記24章
『エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによる
もので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。』
                           (20節)
 ついに、エルサレムとユダが占領され、捕囚となります。歴史は神の物語といわれています。神の選民が神に背き、罪と、偶像崇拝者となっては、主が投げ捨てなくてはならなくなるのです。
 人間はいかに罪深いものでありましょうか。現在おかれた立場に感謝もしないで、常に不足、不満がある所に、自分に仕える偶像を生み出し、偶像を受け入れる素地を形成するものであると思う。
 神はいかなる時にも、より頼む者のとりで、楯である。神を愛し、神に悦ばれる生活こそ、我らが選び取らなくてはならない決断です。
 我らの今日の選択が、明日の生活、霊性、信仰に大きな関係を持って迫ってくる。自らまいた種を自らが刈り入れるのが人間であるのですから、うみ疲れることなく、善を行うことを求めようではありませんか。神は侮るべきお方ではないと、旧新約聖書はあかししている。
 選びの民、イスラエルが神によって投げ捨てられる日がきたのですから、私たちも恐れの心を持とうではありませんか。
<祈り>主よ。私の人生をみこころにかなったものとしてください。あなたから投げ捨てられるような事になりませんように。
                        


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