岩鼻軽便鉄道

略歴

区間 倉賀野〜上州岩鼻
運行開始 大正6年
廃止 昭和20年

 岩鼻軽便鉄道は、大正4年12月に布設権申請を行ったことから始まります。もともとこの鉄道は、明治12年から岩鼻村大字綿貫(現在の高崎市綿貫町)に陸軍岩鼻火薬製造所(現在の日本化薬株式会社)が操業していたため、その軍需物資を運搬するために計画されました。火薬製造所がこの地に作られたのは、井野川と烏川の合流地点にあり、水運に便利、硫黄の産出地である白根山に近いなどの理由があったようです。この鉄道は、大正5年1月には仮免許がおり、大正6年2月9日に用地買収を終了。同年4月28日に、運行が開始されました。資本金は6万円。しかし、建設途中で物価が高騰してしまい、建設費が当初予想の3倍かかってしまったこともあり、営業が困難と判断し、その営業を鉄道院に依託しました。この鉄道は、太平洋戦争末期の昭和20年8月4日、その重要性から陸軍臣第29612部隊によって買収命令が下され、同年8月10日に廃止の許可がおりました。終戦のわずか5日前のことでした。そして同年8月30日、正式に廃止となりました。

 この鉄道を国鉄(現JR東日本)高崎線との分岐点から辿ってみると、そのほとんどが、JR貨物の専用線となっていることがわかります。広い貨物ターミナルになった同鉄道の跡地を見ると、廃止となった鉄道の中では一番幸せな第2の人生を送っていることに、ほっとします。

 同鉄道跡は、そのターミナルの先に、引き込み線として続いています。そして、高架となってしばらくすると、途切れています。ターミナル付近で工事が行われていたので、そこで働いている人に確認したところ、これが岩鼻軽便鉄道の跡地に間違いないということでした。
 

 途切れた高架線の先は幼稚園の敷地になっていますが、その先で、未舗装の生活道路として再びその姿をあらわします。鉄道らしい緩いカーブを描いたあと、日本原子力研究所の敷地に飲み込まれています。ここが旧火薬製造所跡地で、ここに上州岩鼻駅がありました。

 火薬製造所跡地は3分割され、日本原子力研究所、群馬の森、日本化薬の敷地になっています。原子力研究所周辺をよく見てみると、「陸軍用地」とかかれた境界標が至る所にたてられています。この敷地が本当に陸軍の火薬工場であったことを実感すると同時に、戦後生まれであるわたしにとって、本当にこの国が昔戦争をしていたんだということを強く意識させられました。原子力研究所の、当時岩鼻軽便鉄道が通っていた部分には、当時のものと思われるコンクリート製の柵があります。当時のものらしく、劣悪なコンクリートで、少し触っただけで、崩れてしまいました。そのみちをさらに進むと日本化薬があり、当時の様子を少しだけ想像することができます。